遠い景色に見えなくなるもの
私の職場の窓からは、山が見える。
比較的低い、もしかしたら丘と言ってもおかしくないかもしれないくらいの山だ。
その山は、季節によって彩りを変える。冬には灰色になり、春にはピンク色に、夏には濃い緑色に。そして今の季節、秋には紅葉した色に。
今、職場の窓から見える秋の山は、赤や黄色、そして緑色が、まるでパッチワークのようになっていて、とても綺麗でにぎやかな感じだ。
また、私の職場の同じ窓からは、道を挟んだ向こう側に小学校が見え、広い小学校のグラウンドが見下ろせる。
グラウンドではいつも、小学生が体育の授業をしたり、走り回ったり、サッカーをしたり、鉄棒をしたりしているのが、遠目ながらよく見える。
昼食を食べた後、ぼんやりとそのグラウンドを眺めていた。
空はスカイブルー。秋めいた山とのコントラストが気持ちいい。
グラウンドでは、大勢の子どもたちが縦横無尽に駆け回っている。その姿は、まるでたくさんの小鳥が空で戯れ合っているかのようだ。
声こそ聞こえないが、その走り回る姿を見ていると、体力が無尽蔵に湧いてきているようにも見え、
「ほんとに元気だなぁ」
と思う。
ただ、私はそんな彼らを、遠目から見下ろして眺めているだけだった。
そこからは、元気な子どもたちが、”遊んでいる”という微笑ましい景色として見えているだけだった。
でも、そんな彼らの姿をクローズアップしたとき、そこには何があるんだろう、とふと思った。
そこにはきっと、ここからは感じることができない、彼らの色んな感情があるのだろう、と思った。
というか、
もちろんあるはずだった。
喜びや怒り、悲しみの感情。
いじめられている辛い思い、悔しい思い、はたまた好きな子に好きと言えない片思いの感情、友達の悩み、あるいは家庭の悩みを抱えている子もいるだろう。
でも、ここから見ているとそういった様々な想いや感情は、まるで感じ取ることができないのだ。
遠く離れたところからみると、すべてが何でもない日常の風景になるのだろうか。
ここに立っている私の存在も、遠いところから見下ろせば、きっとただの景色のように映るのだろうな。
そんなことをぼんやり思っていると、突然どこからともなく大きな鳥がやってきて、大きく羽ばたきながら目の前をすごい速さで飛び去っていった。