その巣はカップ麺でできていた。使い捨てながら丈夫で、彼らの安寧の場所だった。民家の玄関の扉の上にできた巣は最初からもろく、あぶなげだった。だから誰かが直してあげたのだろう。あまり見ない近代的なほうの巣になっていた。これが5月。僕はバイトを四つしていた。授業に通い、大学生だった。 その巣を見かけるのはいつも気が向かないときだった。彼らが懸命に生きる場所は僕の散歩道の最初のあたりで、家からは反対方向に、目的もなく歩く途中だった。忙しなく親鳥が行き交い、子供は目の開かない顔を大き
誰しも一本や二本の棒を持っている。小さいのであまり使い物にならない。だからみな、正しい用途で使えていない。これは人を殴るための棒なのだ。不如意棒なのだ。 それは血を吸って大きくなる。殴るのに適した形となる。ああ、やはりこれは殴るための棒なんだなと、いざ殴ろうとするとき、妙に納得する。だからその目的を果たさなくちゃいけない。殴らなければならない。強く握りしめ、形は完成に近づく。ほんとうは殴りたくないんだ、今だって殴らないですめばと思ってる。でも、もう取り返しがつかないんだ。僕の
石原慎太郎『太陽の季節』 (三島由紀夫、他編 河出書房新社 1964 石原慎太郎文庫より) 作家より政治家の印象の強い世代だが、彼の就任中の強い口調や日常使いしなさそうな言葉遣いと今回の作品とはそこまで違和感のないものであった。主人公は力強い存在で、バスケをやめ、ボクシングを部活動に行う青年である。所々作者自身の生活に重なる部分があることを鑑みるに、あるいは作者氏も何かスポーツを行なっていたのかもしれない。彼の作品のうちで彼の印象と大きく異なるのはスポーツのように性行為を行
生協の弁当は冷たかった。しかも設置された電子レンジは使用禁止だ。 コンビニの弁当は温かい。ちょうどいい温度にあたためてくれるからだ。 そんなコンビニ弁当が大好きだ。 しかも、コンビニで売ってるらしい。これは便利だ。
お前が正しい根拠を言いなさい。と彼が言っていた。僕はこの言葉から離れることができない。お前が正しい根拠、これは途方もない問題なのだ。お前は何者なんだと問われて答えに窮すような、お前は何者でもないのだと言われているかのような、よるべのない不安に近い感情が付き纏っている。僕が正しい根拠はどこにもなくて、僕の感じている世界には誰もおらず、僕は世界のどこにも存在していないのとあまり変わらないのではないか、とさえ思えてしまう。 前に読んだ本に、同じようなことが書いてあった。科学のやり
村上春樹氏の短編に、『納屋を燃やす』というのがあった。その作品と今日似たような経験をしたからここに書こうと思う。ネタバレを含むため、もし必要ならここで読むのをやめることを推奨する。 『納屋を燃やす』は氏の小説の中でも最初期に書かれた作品で、彼の以降の作品で行おうとしていた文章の原型が見られる。猫は出てこないし、パスタも茹でていない。さて、本題に入る。その作品のタイトルに関して、これがどのような意味を持つのかまず疑問に思う。フォークナーの短編に『納屋は燃える』というタイトルの
今までなんとなくモヤモヤしていたものについて書きます。一般論と僕の考えというのはあくまで別であるという前提です。他人がどう考えていようと、そのことに僕が何かを言う義理は全くないのです。関係のないことのはずなのですが、どこか引っかかってしまって、それがザラザラと喉元に残っているのでそれを発散させてどうにかしてしまいたいと投げやりな感情になっています。なのでどうせなら投げます。が、読まないでください。死についてです。 その前に、人には人の地獄があると著名人の誰かが言っていました
僕としてはさかはりと呼びたいこの言葉ですが、これによって苦しめられることが多々ありました。例えば最近の音楽なに流行ってるの?というようなことは聞けないですね。みんなが聞いているものを批判したいような、興味ないといいたいような、それでいて聞きたいような、むず痒さを感じてしまいます。 この愛すべき性格で特に困るのが、全てではないのですが、人におすすめされたものをどうしても穿ってしまうということがあります。これいいよ、と言われると、それはこうこうこういう点でダメだね、みたいにした
よく言えば、とっさの状況判断に全てを委ねることにしている。それが上手くいってるとは思わない。 例えば、この前二日振りにシャワーを浴びた。思えば風呂とは、みんなと同じ場所で裸になることなのだと誰かが言っていた。そんなことを思いながら体についている何日か分の自分に別れを告げる。過去の、今日とほとんど変わらないはずの自分が泡と共に排水口に流れていく。この時、初めてきのうが過去になると思う。特に、徹夜明けのあの清々しい朝に浴びる温かい水は自分を生まれ変わらせてくれる。そんな予感がす
まんぼうの日、ぼくはどこにも居場所がなかった。急に部屋にいられなくなり、逃げ出すように飛び出した。どこかで朝までの時間を潰そうとした。しかし店は電気をすっかり落としていて、行くあてもなく歩くしかなかった。僕は一人だと強く思った。どの通りも、明かりは最低限で、人の影はほとんどなかった。街の音が少ない。とても怖くなってしまった。音が足りない。音のない世界に繋がっているかもしれない。音がなくなってしまうことを非常に恐怖しながらふらふらとたどり着いたのは鴨川だった。鴨川は音が溢れてい
僕が絵を描くなら鴨川だと思うんだ。京都にはたくさんの景勝地があるけど、あれほど綺麗なものはそうそうないね。ほんとうさ。
ずっと旅に行きたかった。これは僕が生きていく上でずっと考えていることだ。知らない場所で、誰でもない僕でいたかった。思い立って列車に乗る、たったこれだけで周りの環境がガラッと変わるのが面白かった。煩雑な人間関係から解放されることを願ってする人もいるだろうが、僕はむしろずっと誰か特別な人と旅をしたいと思っていた。しかし人数が増えれば面倒も増えるもの、結局一人で旅をすることが多かった。新しい景色に対して、主観に没頭したかったというのも大きい。誰かのいないことの寂しさも僕だけのものに
コーヒーの美味しさとは一体何で、どういうコーヒーが美味しいコーヒーなのだろうか。美味しいコーヒーというものは残念ながら客観的なものではない。客観性を担保するのは間主観性である。その仕組みを示す。その概念は個人どうしの主観、自我が相互に他我を担保することで成り立つものである。すなわちあるものは、それぞれの主観によって確認された時、自他の共有物となる。そのことで初めて客観性を獲得するという考え方である。つまり、他者と美味しいことが確認され続ければ、それは客観的に美味しいコーヒーと
7日目として。 何かに見られているようなものをうっすらと感じている。なにか精神の不調というわけではない。ただ、ふと気がつくと「それ」が僕をじっと見ている。どこに「それ」がいるのかはわからない。トイレの狭い個室にまでは入ってこないみたいだが、その扉の少し離れたところにそれは息を潜めている。図書館の本棚の向こう側にひょっと覗かせている時もある。まるで僕に見つけて欲しいみたいに。だけど決して、僕はそれを見つけることができない。「それ」がいることの確かな証拠はいつも手に入らない。で
二日ほどこの記録の途切れてしまったことでもあるし、二月の反省をしてみたいと思う。二月は本当にアホであった。来月からどうこうなるもでのではなさそうである。明日を思えば我が身哀しき独りかも寝む。以上。
本来、明日のことは全くわからなかったのだと思います。明日も本当に同じ日が登るのか、心配であったのではないでしょうか。あしたまた会おうね、なんてすごい言葉だったのではないかとも感じてしまうのです。日が上り、夜が明ける。ここにはただひたすら純粋な感動があったのではないかと思うのです。いえ、そもそもあした、というのは来るとわかっているから初めてわかる概念なのです。何かが繰り返している、ということにしなければ、今日と同じ明日、というのはわからないものなのです。どこかで区切ってしまって