私の好きな場所
「手を握ってくれ」と父が言う。
「1番落ち着くんや」と目を細めてそう言う。
父が私の手を強く握り返し
「琲音、ありがとな」と、くしゃっと笑った。
これはまだ、ほんの2日前のこと。
ここ数日は、苦しがる父の姿にうろたえる母から、夜間に突然の呼び出しが増えた。
だから時間の許す限り、父と一緒に過ごすようにしていた。
静かに流れていく狭い空間で、荒い呼吸音が父の息苦しさを思わせる。
意識が遠くなる時間が増えて
ほとんど食べなくなり
起き上がることもなくなり
今朝はもう、眠ったまま、顎をあげ、肩で息をしていた。
握った手を握り返してくれなくなり
私を呼ばなくなり
目を開けなくなり
いつもみたいに私の話を聞いてほしいなぁって、さみしく父を見つめる。
長い時間をここで過ごしたんだなぁって、手の届く場所に置かれた父のメガネや携帯電話をリモコンの横に揃えた。
ここだ。
ここだったんだ。
私の好きな場所は「父」だ。
小さな頃から、ずっと。
しんどいときに気持ちを聞いてほしいなぁと思う人。
頑張ったときに褒めてほしいなぁと願う人。
「それでいいよ」
「お前はよく頑張ってるよ」
それを聞くと、何よりホッとする。
父が私の大好きな居場所だった。
当たり前にある居場所は、永遠に当たり前ではなく
なくなりそうなその居心地の良さに、心が置いていかれる。
父の手が変わっていく
爪が青白くなり
冷たくなり
力なく
柔らかく
かたく
やっと長い苦しみから解放されて
父は私のまぶたの奥の人になるんだな、と思う。
私の好きな場所は父だった。
昏睡の深い意識の底に、まだ私の声が聞こえているのだろうか。
父さん、私、横にいるよ。
数日間、noteをお休みします。
落ち着いたらまた、いつもの私で戻ってきます。
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