顔見知りになってくださいませんか？

新緑の木々が等間隔に並ぶ坂道を、車でゆっくりと上りきると、右手のつきあたりに薄いピンク色の建物が見えてくる。
娘が通う施設だ。

24歳になる二女のゆうは重度の心身障害があり、特別支援学校を卒業してからは、この生活介護施設に通っている。医療的なケア（痰の吸引や人工呼吸器の使用など）が必要なので、親が送迎をしなければならない。


玄関に車を横づけにすると、施設の中から職員が出てきて、いつも優しい笑顔で娘に声をかけてくださる。

【助手席に寝転んだ姿勢で乗っている娘を抱き上げて、ストレッチャー型の車椅子に寝かせる】という移乗の動作は、女性では厳しい。

娘が車椅子に乗っている様子です。

毎日やっている私でも、かけ声と気合いだけでは限界になってきている。

娘の体重は約30kg。
全身が脱力しているために、抱き上げるのはかなりの力と配慮が必要になる。だから男性職員にしか、娘の移乗はできない。

ところがこの施設には男性職員が少なく、施設長を含めて2人だけしかいなかった。
4月に入り、やっと、念願の男性職員が増えることになった。

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待ちに待った新しい男性職員は多田さん（仮名）というお名前で、50代の穏やかな雰囲気のおじさまだ。
はじめましての朝、車から降りてきた私に、多田さんは笑顔で挨拶をされた。

わぁ、ムロツヨシさんに似ていらっしゃる！

お会いしてすぐに、私は思った。

多田さんは、言葉数は少ないが丁寧な言葉遣いで、やや控えめな印象を受ける。シャイな方なんだな、と思った。
マスクをしているので、はっきりお顔はわからなくても、目や髪型、背格好などの外見がムロツヨシさんっぽい。

娘の抱っこの仕方も最初からとてもうまくて、娘たちのような利用者への接し方も柔らかい。
良い方に来ていただけて、ありがたいなぁと思っている。

4月も過ぎ、ゴールデンウィークを終え、あっという間に5月も後半に入った。

娘の送迎のたびにムロツヨシさんと会っている、という幸せな誤解が、私には完全に定着してきた。

そんな時、先輩の母たちと、たまたま話す機会があった。
先輩たちは以前から多田さんをよく知っているので、思い切って聞いてみる。

「多田さんって、ムロツヨシさんに似てますよね？」

「いやぁ、似てるかなぁ。少し雰囲気は似てるけど、多田さんはもっと、ムロツヨシさんよりもシュッとしたお顔をしてみえるよ。」

とのお応え。

どんなお顔なんだろう。
ムロツヨシさんよりも、シュッとかぁ。
気になり出したら妄想が止まらない。

見てみたい。
顔見知りになりたい。

顔見知りを辞書で調べると
「互いに顔を知っていること。またその人。」
と書かれています。
よくお互いのことを知っていたり、接する機会がたくさんあったりしても、お顔を知らないなら「顔見知り」ではないのかな、と不思議な気持ちになりました。
コロナ前までは、「よく知らないけど、一応顔見知り」という関係作りのほうが簡単だったと思うのですが。

ある朝、駐車場にいた施設長に「多田さんのお顔を知らないので、一度拝見してみたいんですけど。」と、冗談っぽく言ってみた。施設長とは長い付き合いなので、何でも言えてしまうのだ。

「あ、言っときますよ。次に来られるときに、マスクをちょっと取って顔を見せてあげてって、多田さんに伝えときます！」

施設長はクスクス笑う。
恥ずかしいことを言ったかな、と思いながらも、期待で胸が高鳴る。
多田さんのお顔を、やっと拝めるのだ。

翌日の朝、早々と玄関で娘の到着を待っていた多田さんは、マスクを少し下げて、お鼻が丸出しになっていた。

施設長から聞いてみえるのね、多田さん、やる気ね！

私も身構える。
ワクワクよりドキドキが勝る。

挨拶もそこそこ、娘の移乗も終わって、さぁっていうときに、中から看護師さんが玄関までやって来て、車椅子を押しながら娘を中に連れて入ってしまった。

お鼻を出した多田さんとの2人きりは、かなり気まずい。
とりあえず何か話そう、と思っていると、「じゃあ、失礼します。」と言いながら、まわれ右をして多田さんも施設の中に入ってしまった。


多田さん、シャイおじさまだな。
こんなおばさんになっても、大事なときには私もシャイ。
朝は失敗だ。
でも、まぁいい！迎えの時にチャンスがまだある！

車の中で、ひとり反省会。

さすがにこのご時世、マスク外すのは罪かな？
でも多田さん、お鼻オープンで準備してくださったんだし、私のひと声がないとマスクを外せないよなぁ。

必ず、次こそ、きちんとお願いしてみる！

そして、決戦のお迎えタイム。

多田さんは？
マスクを、鼻の下の上唇スレスレまで下げていらっしゃる！
覚悟を決められたようだ。

娘を車に乗せて、私も車に乗り込む。
さぁ、さよならの挨拶の時が来た。
心臓がバクバクしてくる。
多田さんと目が合った。よし！このチャンスを逃しはしない。


「あの、あの…。お世話になりました。あ、ありがとうございました〜。」

おいおい、やっぱり「お顔見せて」とは言えないのか、私。

「あ、明日もお待ちしています。さよなら〜。」

と、多田さん。
多田さんも、あと一歩、いや、あと5cmの勇気が出なかったのか。


はい、ミッション失敗。

そうして、私は笑顔を作りながら車のアクセルをゆっくり踏んだ。口だけ隠したマスク姿の多田さんに見送られながら。
お顔が8割は見えているんだけど、やっぱりまだムロツヨシさんだ。

翌日の多田さんは、目の真下までしっかりマスクをしていた。

そうか、そうだよね。戦意喪失だよね。
タイミングを逃した私の負けだ。

夕飯の時、夫に、多田さんのお顔がしっかり見られなかった話をしたら

「お前もマスク取ればいいやん！お互いに顔を知らないんやろ？」
と、即答。

確かに。私も、マスクで目だけしか出していない。
これでは、平等ではないよなぁ。
でも考えてみたら、マスクを外すのは、なんとなく恥ずかしくて相当な勇気がいる、と思った。　
おかしな時代が来たものだ。

「多田さん、妄想で私を松嶋菜々子さんだと思ってくれてたらいいな。」

という私を、夫は冷たい目で見てくる。

こういう時こそ、
「じゃあ、俺は反町隆史か！」くらい言えばいいのに。

「はぁ？お前、全然似てないぞ。」だと。

おっしゃる通り。
冗談だってば。

もう、無理はやめよう。
しばらく、多田さんはムロツヨシさんのままでいいかな。