日曜日のカップ焼きそばと、きょうだい3人の隠しごと
ざく切りキャベツをビニール袋へガサっと入れて、ごま油と塩昆布を混ぜてモミモミするだけ。
この簡単な一品を、わりと夫が喜んでくれる。
最近、我が家の料理に塩昆布が登場するのは、この副菜を作る時くらいだ。子どもたちが巣立ち、おにぎりを握る機会が減って、塩昆布をあまり使わなくなった。
焼き海苔やふりかけも、お弁当を作らなくなったので活躍の場がほとんどない。
それでもそれらを常備しているのは、おそらく実家の食卓にいつも「朝ごはんのおとも」が置いてあったからだと思う。
実家のダイニングテーブルの隅には、数年前まで、几帳面に並んだ朝食セットがあった。
ふりかけ、塩昆布、梅干し、海苔の佃煮、焼き海苔、など。
それらを入れた小さな容器が四角いお盆の定位置に並べられ、母の作った牡丹色の布が被せられていた。ピンクのバイアステープで縁取られた、大きな花柄のホコリよけカバー、それを母は、以前暮らしていた借家の時代からずっと大切に使っている。
父が亡くなった今では、お盆の上は朝食セットから食べかけのお菓子たちに変わったが、年季の入ったカバーはそのまま、変わらずホコリを遮っている。
実家の台所で母と話していて、見慣れた景色に溶け込んでいるその色褪せたカバーに目がとまった。ふと、40年以上も昔の、薄暗い台所での小さな隠しごとを私は思い出していた。
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私が小学生だった頃、我が家は川沿いの小さな一軒家に家族5人で暮らしていた。
和室二間と台所、どの部屋も六畳で、5人が暮らすには少し手狭な、かなり古い借家だった。それでもきれい好きな母が毎日隅々まで掃除をしていたので、ものが多いわりにはスッキリしていた。
同級生の男子から「ボロい家やなぁ」とからかわれるくらいに粗末な家でも、夏になると、家の前には母が育てているマツバボタンやオシロイバナが色とりどりに咲き、夜には庭を、蛍がたくさん飛び交っていて、私はそんな悪口があまり気にならなかった。
「うちは檜風呂なのが、いいな!」と父が時々言っていて、木のお風呂の何がいいんだろうと思ったことを、ぼんやりと覚えている。
私が小学3年生になった頃から、母は週末だけ、父の店を手伝うようになった。当時はまだ、新しく従業員を雇うほど店にゆとりがなかったと、大人になって両親から聞いたことがある。
近くに頼る親戚もいなかったので、週末になると、二つ年下の妹や六つ年下の弟と、朝から夕方まで3人だけで過ごすことになった。
平日、学校がある日は母がずっと家にいるのに、週末はいない、という入れ違いのような生活が始まり、家族の日常が大きく変わった。
土曜日は半日学校へ行っていたし、弟は一日ずっと保育園だったので、あまりその不便を感じなかったが、日曜日は閉じ込められているような窮屈をずっと感じていた。
だから私は、日曜日が嫌いになった。
「危ないから外に行ったらあかん。」
「弟の面倒をみたってな。あんた、お姉ちゃんなんやから。」
そう言われても、まだ3歳だった弟は暴れて泣くし、小学1年生の妹とも喧嘩するし、私だって寂しいし。
友だちと遊ぶこともできず、私はきょうだいの面倒をみたり、ごはんの世話をしたり、洗濯物を妹と取り込んだり。
友だちから、週末に家族と遊びに出かけた話を聞くたびに、うらやましいな、と思っていた。
北側にある台所は、窓も小さくて太陽の光が入りにくい。薄暗い台所の真ん中には、不釣り合いなほど大きなダイニングテーブルがあった。冷蔵庫や茶箪笥もあり、台所は人が通るのがやっとなくらいで、特に狭く感じられた。
でも、そんな台所で過ごすことが私たちは多かった。料理をしている母がいる台所は、明るくていい匂いがして、家の中心のような賑やかな場所だったからだ。
それなのに母のいない台所は、昼間でも夜みたいだった。
留守番の日は、昼ごはんに、母がカップ焼きそばを買っておいてくれた。
日曜日の朝、ダイニングテーブルの上の定位置にカップ焼きそば3つとポットを用意すると、母は仕事に出かけていく。
昼になると、小さなきょうだいにはポットの湯が危ないので、私が3人分の焼きそばを作った。焼きそばの湯切り名人になるくらい、たくさん焼きそばを作った気がする。
お出かけ日和の日曜日にも、日の当たらない台所で、私たちきょうだい3人は焼きそばを食べていた。
料理好きの母がなぜ、手作りではなく毎回カップ焼きそばを用意していたのか、今考えてもよくわからない。働き始めた母は忙しくて、おそらく子どもの昼ごはんまで考える余裕がなかったのだろう。もしかしたら、私たちがカップ焼きそばを好きだと思っていたのかもしれない。
最初は美味しいと思っていたが、さすがに毎回は飽きてしまって、私はカップ焼きそばの匂いさえも嫌だと思い始めていた。
早朝から両親が仕事へ出かけるので、大人のいなくなった家の中は無法地帯だ。正直、外へ出て遊んだし、約束の時間を守らずにテレビを見たり、おやつを食べたりしていた。
それでも時間はたっぷり余ってしまう。
退屈過ぎる私たちは、ある日、自分たちで昼ごはんを作ってみることにした。
ただ、「火は絶対使わないように!」と母からきつく言われていたし、野菜や包丁も勝手に使えなかったので、ダイニングテーブルの上の朝食セットでおにぎりを作ることにした。
まずは大きな大人用のお椀を3つ、テーブルに出した。
炊飯器の中にはいつもご飯があったので、ご飯を大きなお椀にうっすらと敷き、海苔の佃煮をペタペタと塗りつけた。
手で握るのはベタベタしそうだったので、3人がダイニングテーブルに向かって、立ったままお椀を両手で持ち、中のご飯をクルクルと動かし始めた。
時々、落ちない程度に上下に振ったりもして。
すると、ご飯がまるく固まってきて、それがとってもおもしろかった。
暴れん坊の弟も、小さな手でお椀を持って、夢中でクルクル。
おしゃべりな妹も、黙って真剣にクルクルしている。
その上にまたご飯を軽く足して、今度はふりかけをふってみた。いつもなら「かけ過ぎでしょ!」って母に叱られそうなくらいの量を大胆にふりかけて、またお椀をクルクル。
握らなくてもだんだんおにぎりのように形が整っていくのが、すごい発見のように思えた。
さらにご飯を乗せて、上から塩昆布もパラパラ、そしてクルクル。
またご飯に海苔の佃煮、ご飯を足してふりかけ。
クルクル、トントン、クルクルコロコロ、トントンペッタペッタ…。
まんまるを目指して、3人が一生懸命に転がし続けた。
この作業を約1時間ひたすら繰り返し、ミルフィーユ状態の、父の握りこぶしみたいなサイズの塊ができあがった。
特大のまんまるおにぎりに、焼き海苔を贅沢に貼り付け、完成!
「いただきまーす!」
そのまま立った状態で、3人が手づかみで大きな黒いボールにかぶりつく。
とっても美味しくて、おかしくて、3人で笑い転げた。
こんな美味しい食べ物は他にない!と思ったくらい。
私たち、料理の天才やん!と勘違いするくらい。
感動の美味しさに、心もお腹もいっぱいになった。
私たちはこのおにぎりに「ぺちゃり」という名前を付けて、3人だけの秘密にすることにした。
満足したのも束の間、手をつけなかったカップ焼きそばを見て、どうしようかと私は困ってしまった。
母が見たら、なんて言うだろう。
私たちには母をうまく誤魔化すような知恵もなく、母から訊かれたらどう答えようかとドキドキしながら母の帰りを待った。
仕事から帰った母は、炊飯器を開けてびっくりしていたが、私たちを叱らなかった。「あれ、お昼はご飯を食べたの?」って言っただけだ。
私たちは「ぺちゃり」のことを秘密にしたまま、翌週の日曜日も、昼ごはんに「ぺちゃり」を作って遊んだ。
しかし、あっという間におにぎりが出来てしまって、美味しかったけど、最初ほど楽しくなかった。
3人の秘密の料理は、3歳だった弟の記憶には残らないくらいにあっさりと、遊びの選択肢からなくなってしまった。
その後は結局、日曜日の昼ごはんはカップ焼きそばに戻った。
そんな留守番の日曜日を3年ほど過ごしたが、昼ごはん以外のことはあまり覚えていない。
あの頃に食べ過ぎたせいなのか、カップ焼きそばは私の苦手な食べ物になってしまった。
*****
ダイニングテーブルに肘をつき、お茶を飲みながら、私は母に、借家暮らしの頃のことを尋ねてみた。母は少し遠くを見つめながら、
「あの頃のことは、もう忘れたわ。自分たちの家が早く欲しくて、小さなあんたたちに留守番させて、土日は一生懸命働きに行ってたねぇ。」
と言って、あまり話そうとしなかった。
いつも昼ごはんがカップ焼きそばだったことをサラリと言ってみると、「そうだったやろか。」と言っただけで、母はあまり覚えていなかった。
それでいいような気がして、それ以上は、母に訊くのをやめておいた。
今になって思うと、小さな子どもたちを家に置いたまま、丸一日働きに出るのは、母もつらかったはずだ。
母の「放っておいてごめんね」っていう気持ちが、当時の母の年齢をはるかに超えた今の私には、痛いほどわかる。
カップ焼きそばは、母の忘れたい記憶なのかもしれない。
歳を重ねるたびにあれこれ考え過ぎて、美味しかった「ぺちゃり」に、留守番の寂しさや母の痛みが足されてしまう。
すると、切ない味として、私の記憶が少しずつ上書きされそうになる。
そういうところが、大人ってなかなか厄介だ。
ぺちゃりは、間違いなく最高に美味しかった。
きょうだい3人が笑い転げた最高のおにぎりは、小学3年生だった私が感じた楽しい味のまま、私の中で大切に永久保存しておきたいな、と思っている。