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【石田スイ展】「東京喰種」から見えた“苦しいから笑う“理由

何度見ても惹かれてしまうカネキを抱くリゼ。ここからカネキの人生が大きく変わってしまった。人間としてのカネキが終わり、喰種としてのカネキの人生がはじまった。

先々週一度足を運び、展示の圧倒的数の多さや、グッズのバリエーションの豊富さなど含めて、あまりにも素晴らしく再度来訪することにしたのだが、最初は興奮気味にレポートを書いたものの、初回と感じ方が違ったので2回目は「東京喰種」の展示コーナーに特化して感想を書くことにした。

東京喰種とは?

あらすじは以前の石田スイ展のレポートに書くべきだったと反省。ヒット漫画だから誰でも知ってると思ったが、ある程度知っていたとしても大きなテーマとして”生と死”が取り上げられおり哲学的で難しいと思ったので、改めてあらすじをこちらに書く。

「東京喰種」は端的に言うと人間が人間を食べるSF・アクションストーリーだ。喰種は人間の形をしているモンスターで、人間と共存した世界で生きていく。

豚肉を食べるように喰種は人間の肉を食べて生きている。喰種は通常人間が食べるものが不味く食べられず、水とコーヒーと人肉しか口も体も受け付けない。

人間は喰種を悪者だと決めつけ、「喰種捜査官」といういわば喰種の捕獲専門の警察がこれ以上被害者を増やさないよう血眼になって喰種を探す。

不慮の事故で喰種の臓器を移植された主人公のカネキは”半喰種”として生きることになり、喰種になっても人間として生きていきたい葛藤が描かれる。

”正義”の正体

石田スイ展に行ったのは今回が2回目。

1つは前回細かい部分が見れていなかったのでもう一度見たかった、1つは単純にもう一度石田スイの世界を体感したかった、もう1つは答え合わせをしたかった。

展示会はその架空の世界に入り込む事ができる。だけど決してコスプレのようにカネキやトーカなどの登場人物になりきれない。物語に入り込んでいるのは紛れもなく自分自身なのだ。

私が「東京喰種」を読んで考えたことは”正義”だった。

最初はどうしてそこまでしてカネキは喰種になっても生きたいのだろう?と思ったのだが、喰種は再生能力が非常に高く、余程のことがないと死なない半ば不死身の体なのだ。だからカネキはどれだけ苦しくても痛くても”生きる”ことしか道が無いのだ。

私はカネキと同じで「喰種とヒトが理解し合える世界」を目指して欲しいと思ったのだが、今回の展示を見て私がアニメを見て答えを出した”正義”はなんだったのだろう?と思った。一度出した答えが改めて自分に取ってベストな答えだったのか、入り込みすぎて分からなくなってしまったのだ。

展示されているものはネームや実際スイ先生が書いたアナログの原稿、オリジナルのイラストパネルなどで「東京喰種」の歴史から見てかなり断片的である。情報量が極端に少なくても、この展示会は「東京喰種」を見終えた/読み終えた熱量で”正義”と”生死”について考えてしまうのだ。

極端な話、人間が喰種を排除し人間だけになった世界が一番だったのだろうか、喰種が人間を食べ尽くして喰種だけの世界になるのがよかったのか、カネキが目指した喰種とヒトが理解し合える世界が平和的でよかったのか、彼らお互いにとって”いい世界”とは何だったのだろう。

けど答え合わせをしたくても、探れば探るほど答えや目的がどんどん見えなくなってしまった。気がつけばストーリーのど真ん中にいてしまっていて、客観的に見れなくなっていて、一度出した答えが人間と喰種のどちらの視点から見ても、正しかったのかも間違っていたのかも分からなくなってしまった。

探そうとも答えなんてないと思う。と言うより、探れば探るほど手応えがなくなる。自分の答えが正しいなんて言う信念なんてないのに、自ら井の中の蛙になっていく。「喰種も人間も仲良く生きる世界が一番いいよね?」と作者にも登場人物にも同じ東京喰種のファンに問うても、答えなんて帰ってくるはずない。

気がつけばただの考え過ぎで、池袋のビルの一角で「東京喰種」の本質全てを見失っていた。

この感覚は「東京喰種」に限らないと思うが、ここまで陥ってしまったことは「東京喰種」と言う作品が唯一無二であり漫画などのカルチャーのなかでも特に特異で特殊な存在であると痛感する。

喰種としての”幸せ”の本質

私は最終話を読み切るまで、カネキのことを「喰種になってしまった不幸な少年」だと思っていた。

冒頭の「unravel」のオリジナルムービーで、有馬がカネキ(ハイセ)の前で自害し、カネキが「僕は幸せでしたよ」と言う名シーンが一面に使われる。

そのシーンを見たとき、喰種になったカネキの思う“幸せ“とはなんだろうと単純に思った。

有馬はカネキに命を絶ってもらうことを望んでいたが、カネキに取って有馬の存在は喰種の先生であり、ハイセと言う第二の名前の名付け親であり、父親同然慕っていた有馬が目の前で自ら死ぬだなんて、私ならショックでどうにもならない。

「東京喰種」のファンとしての幸せは、大好きな石田スイのイラストに囲まれたことや、この作品に出会えた幸せがある。

沢山登場人物がいる中でカネキに重ねてしまうのは、場内BGMがカネキの葛藤と心情を描いた「unravel」だから、自然とカネキに引っ張られてしまうのだ。

カネキの思う”幸せ”は人間と一緒で、喰種になってからの沢山の出会いと、出会った人と過ごした時間だったのかなと思う。

苦しいから笑う

石田スイが読者の質問に答えるコーナーがあり「〇〇のカネキはどうして笑っているのですか?」の問いに対し「苦しいから」と答えているのだが、その答えが2週間前行った時からずっと脳裏にこびり付いていた。

“苦しいから笑う”のは人間の真理だと思った。というのも「絞首台の笑い」と呼ばれる心理学がある。

例えば「最近スマホ壊れて買い替えたり空き巣に入られて下着取られてたりしてツイてないんだよね、アハハ」みたいな自分の不幸話を笑い話にしてしまう状態を指し、直面したくない現実から目を背けて自虐すると言う心理だ。デジャブと同じくらいによくある光景だと思う。ただこれが癖になると自虐癖がついてしまい、自分にとってあまりよろしくないので気をつけたいところだ。

”苦しいのに笑う意味”を知ってしまったが故に、この無理して作った笑顔は苦しくて笑ってごまかしているんだなとか、受け入れたくない現実があるんだなと思ってしまった。あの子も、この子も。

「東京喰種」に触発されて剥き出た生きている苦しみや生まれてきた罪は、触れたら消えてしまうような胸の中に出来た無数のシャボン玉の儚い浮遊感と、天使の羽のような柔らかい夢幻の余韻が蓋となり、無理して笑って苦しみを閉じ込める必要は無かった。

ただ、今後目を背けたくなる現実にぶつかったとき、笑うことはしないと思う。余計に苦しくなるから。


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紅葉
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