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●山逢いのホテルで●

旅を思う映画だ。それは日常から離れたどこかまだ見ぬ土地への実際の旅でもあり、まだ辿り着いていない思考への蛇行と登頂の旅でもある。

鉄道に乗る一人の女性の背中からストーリーは始まる。車窓の外に緑が走り去り、ガラスを通して差し込む光が車内の暖かな空気を照らす。その空気の中に、これから始まる物語が含まれているのを感じる。そしてその背中からは旅が始まることを予感させる。

スイス南部の小さな町に住むクロディーヌは仕立屋をしながら障害のある息子と二人で暮らす。週に一度、鉄道とロープウェイを乗り継ぎ、山間にあるダムのそばのホテルへ向かう。かりそめの情事のために。仕立屋でも母親でもない"彼女"になるために。ほんのわずかな現実逃避のような旅に出る。
そういったさわりだけ聞くと艶っぽい映画を想像するだろう。しかしこの映画が提示しているのは全く別のことだ。

いろんな顔の彼女が登場する。最愛の息子と過ごす顔、仕事への誠実な顔、誰にも見せない秘密の顔、そして恋をした顔。どれが本当かなんてない。どの顔も嘘のない彼女だ。ここに映る全てがそうであり、映っていない心の奥、彼女自身が見失った"本来の自分"も含めて彼女なのだ。
そしてそんな彼女の人生の一幕を通して私たちは考えたくなる。"役割"以外の自分自身について。役割を纏う前の、どこかで別れてしまった本来の自分について。社会において、とかく女性は役割に当てはめられることが多い。当たり前のように、そして無意識のうちに自分で選び取っている場合もある。
それをラストシーンの彼女の表情に問われる。立ち止まらなくていいのか、忘れたままでいいのかと。

圧倒的としか言いようのない壮大なアルプスの風景がとにかく素晴らしい。それを背景に考えたくなる。そんな心の旅に出たくなる。

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