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戦時ベトナム農村の哲学堂でTNT爆弾を食ったナマズを市場で入手して食うと美味いらしい(『ベトナム戦記』開高健著)

悲惨な世の中で少しでも感じられるユーモアは救いだと思う。そしてやはりノンフィクションは良い。

 農民たちはクリークに椰子の葉でかこった小さな哲学堂をつくっている。家のなかでは哲学しないのである。野外で日光をさんさんと浴びながら七、八分の小さな楽しみに心ゆくまでふける習慣である。板を二枚わたしただけの構造であるが、汚れようがないからとても清潔で、どんな文明国の水洗式よりも完璧である。第一、故障する心配がいらない。そこで私はゆるゆるとしゃがみこみ、ベトコンの狙撃兵はいないかどうかと対岸のバナナや蘇鉄の林をおそるおそるうかがいつつ、やおらTNT爆弾を投下にかかる。爆弾が水面に達した瞬間、ばちゃばちゃばちゃっとえらい音が起り、水しぶきがたつ。顔にかかるくらいの水しぶきである。おどろいてのぞきこむと、見よ、無数の魚がおしあいへしあい御馳走にありつこうとして大騒動をやっているではないか。試しにもう一発投下する。ワッという歓声があがり、お尻の穴へとびこみそうないきおいで魚が跳躍してくる。三十センチはあろうかというナマズが小さな、小さな、ビーズ玉みたいな目を光らせながらヒゲをそよがせて黄濁した水と日光のなかをゆうゆうと消えていく。大きな口にひときれの私の精選フォア・グラをくわえている。その横顔の満悦ぶりを見るとパリの銀行家が松露入りのストラスブール産のフォア・グラにありついたように幸福そうである。
 機銃掃射のときもやっぱり魚たちはとびあがってくる。けれど、大いそぎでパクッとやってもこのときは泡だけしかないから、ぴしゃりと尾でくやしげに水をうって消えていく。そのときの横顔はこう舌うちをしているようである。
「ちきしょう。日本人の奴。またニセモノをつかませやがった…。」
…(中略)…
また、これこそ真実であろうと思うが、この国の土と水はよほど多産なのである。戦争さえなければほんとにいい国なのである。戦争と搾取さえなければいい国になれる国なのである。
(なお、註を一つ加えると、農民はこのナマズを釣って市場へ売りにゆく。焼いて食べてみたが、なかなか悪くない将校食であった。エネルギーの永久回帰はうまいものだということを作戦の昼食で教えられた。)

『ベトナム戦記(新装版)』2021(初出1965)、開高健著、朝日文庫、p26‐p28

 この表現力の無駄遣いだけで既に面白い。哲学堂…それはいったい何なのか…?と思って読んでいくと段々と雲行きが怪しくなり、その後のTNT爆弾…。哲学堂というのは当時なら誰でも知っているような比喩表現だったのだろうか…(笑)。
 それはさておき、ベトナム戦争という悲惨な戦禍の真っただ中で、見たくないけれども、見なければならない真実を目の当たりにしながらも、その間に挟まる日常の中のユーモアに救いを求めることもあっただろうし、それはある時は一方で別に何でもないことでもあったのだろうなと感じられる文章だと思う。

現代の戦争をいかに知るか

 「戦争」などとは無縁だと思われていた戦後の日本にも、無視できないような出来事が世界各地で起こっている。私は戦地に赴くほど勇敢ではないし、ましてやそんな場所で誰かの力になれるほど立派な存在でもない。だから、『ベトナム戦記』を読むなどして、過去の日常と非日常の体験談から、より真実と呼ぶにふさわしい現実のレポートを受け取り、現在の戦地について想像を働かせることしかできない。「想像すること」は、真に自分の目で確かめること以外では、戦争について考える手段としてまともな方だと思う。
 そうして過去のレポートに目を通し、過去の歴史における具体的な事象がわかれば、あとは当時の主要登場人物のベトナム、フランス、アメリカ、ロシア、農民、NFLなどを現在の主要登場人物アメリカ、ロシア、ウクライナ、イスラエル、ウクライナ国民、ガザ住民、ハマスなどの国名や組織名、属性で置き換えれば大体の想像はできてくる。
 この辺りはより正確な情報媒体からの情報をもとにした方がよく、例えば新聞などで「アメリカがウクライナに〇〇億円規模の兵器を援助した」というような意見の入る隙のない情報を受け取るだけなら精度は高いはず。そういう情報を整理すれば、SNSの映像やでたらめな発信に左右されない。マスコミでも出来事の伝え方は曲げられても、出来事自体を曲げることは簡単じゃないから信憑性は事実の羅列かどうかで判断する。そういうジャーナリズムは一定程度は日本のマスコミにも備わっているとは思う。良し悪しはあるけれども。

私がなぜそれを知りたいか

 大きな国があって、小さな国はそれに左右されて、その国民や地域住民はもはや自分の手にはどうにも出来ない事態になっている、という状況は1900年以降なら様々な紛争・戦争はどれも基本的に似た構造だと思う。

 戦後復興、高度成長期に大きくなった日本は、現在は陰り気味とはいえ未だに世界的に影響力もあり、経済的にも文化的にも良いところが多いので、小さな国とは言えないだろうと思う。しかし、この日本という国、それを構成する大きな社会にあって、”私自身は小さな存在でしかない”ということをしみじみと感じることが多く、とても今の世の中で起こっていることが他人事とは思えない。やはり搾取される側に焦点を当てたものに関心がある。それで『ベトナム戦記』を手に取ってしまった。

世界の分断について

 人々はこの数十年で幾度となく、グローバリズムに期待しては失望してきた。期待を捨てないでいようと思いつつも、それを諦めさせようと色々な出来事が世界各地で起こる。現在もウクライナ・ロシア間、イスラエル・ハマス(とイランなど周辺国)間の戦争、各国でのナショナリズムの興隆、安全保障に関して自国を守る動きの強化など大きな視点で見ても分断は激しくなっているように思える。国際的な協調性は優先事項ではなくなってきている。
 自国を守るというのはそれはそれで大切なことだろうと思う。けれど、地球レベルの問題(主要なところでは温暖化、核兵器など)が存在感を増していく中でやはり自国を守るためにも、むしろ国際的な協力は欠かせないだろうと思う。実際、そういう取り組みをしていこうという動き自体は続いているし、続けていくべきだろうと思う。

結局は自分に返ってくる

 地球レベルの問題が今の自分の目の前の生活に関係あるだろうかと問われれば、正直そういう感覚は薄い。いつも通る道は同じだし、生活のリズムも変わらず続いている。それでも、そういった生活の中で、いざ何かが起きた時に自分が犠牲にならない保証はどこにもない。日本は災害大国で、自然災害によってしばしばその事を思い出すが、それと同じように国際情勢も容赦なく私たちに襲い掛かってくると思うのだ。
 今すぐに何か起こる可能性は現実的に考えて低いし、すぐに何かできることがあるわけではないが、そういう覚悟みたいなものを持っておくことが必要であると『ベトナム戦記』を読んでいて強く感じた。どういう生き方でも、後悔はしたくない。

悲しみの行き場

 とはいえ、ニュースで戦争や事件、災害が起こるのを見聞きすると後ろ向きな気持ちになる。
 行き場のない悲しく、やりきれない思いや絶望感をどう消化すればよいものか、多くの人がコロナや戦争、その他の闇の部分で蝕まれた世の中に生きながら、特にこの数年で考えてきたと思う。答えは一生見つからないのかもしれないが、暫定的な一つの答えとして日常を生きること、生きなければならない日常が目の前にあるから生きるという答えがあるはず。日常を生きることが救いにもなるという感覚を覚えた人も多いのかなと思う。関係ないわけではない、でもやることは変わらないということ。

そんな感じ

明日もテキトーに生きていこう!

 『ベトナム戦記』を読んで良い本だったから、なんか感情に任せて書いてみたけど、結局何が言いたいかわからなくなったのでテキトーで。いろいろ考えつつも、まあ明日もあるし、人生悲しいことばっかじゃないのでテキトーに楽しく生きていきましょう。週末には中央競馬もあるし、もうすぐプロ野球のキャンプインもあるので、そういうのを楽しみにしながらなんとかやっていこう。
 個人的にはバウアー投手がDeNA戻ってきたのはびっくりしました。感情を表に出すタイプで投球を見ていて楽しい選手の一人なので開幕が楽しみになりました。

おわり