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小規模映画と生きづらさの狭間で(12月14日)

今日はやけに頭が冴えている。それもそのはず、9時間半も睡眠できた。起きて早々携帯をつける。正午を当にすぎ13時を回っていた。僕の頭は午後にならないと思うように動かない。確実に夜型人間だ。なのにも関わらず世の中は常に昼を主体に回っていく。このギャップに生きづらさを感じながら後何年僕は生きれば良いのだろうか。1人の時はいつもそんな考えても仕方がないようなことばかりを考えてしまう。

映画館に出かける。僕が最近見るような映画は起承転結がしっかりあって、後半どでかい爆発が起こるような派手なものから、人の日常や情景を映すような落ち着いた映画へとシフトした。昔は物語に抑揚のない映画のどこが面白いのか到底理解できなかったのだが、今は登場人物の心情を想像したり、映像の美しさやセリフや演技の一つ一つに集中することで楽しめるようになった。楽しめなかったものが楽しめるようになる感覚は、大人になってわかりにくくなった自分の成長を感じれる貴重な機会の一つで、なんとも言語化し難い満たされた気持ちで胸がいっぱいになる。こういう時こそSNSを駆使しインスタのストーリーズで友達に気持ちの共有を図りたいのだか、どうしても「こういうのがカッコいいとか思ってるんでしょ」とか「どうでもいいんだけど」と思われることが、自分の大切なものを踏み躙られているようでいつも下書きに残しては削除してしまう。自分が自分の好きなものを大切にできているのであればそれを他者にまで強要したいとは思わない。SNSが根本的に向いてなさすぎる。

肝心の映画中はというと、まあまあ離れた位置で同世代くらいの男性が1人、前の座席の椅子に両脚を上げ、膝を折り曲げた胎児のような体制でポップコーンを食らっていた。どうしても足のマナーが気になる。そしてポップコーンを食べるシャクシャク音が静まり返った映画館にこだましていた。一度何かが気になり出すと、それは連鎖していきポップコーンを口に運ぶ間隔でさえ気になる。映画館はみんなが同じスクリーンに集中している分、普段なら気にならない小さいことが大きく見えてしまうのは映画館という場所の性質の良さでもあり悪さでもある。

映画が終わりエレベーター前で待機の人だかりができる。上映中は薄暗く前を向いていてわからなかった顔が明かりに元に晒され初めて目視で確認できる。若い女性や年間何本も映画を見てそうな中年の男性などそのほとんどが1人で来ていて、この映画好きの猛者たちはこの映画を通して何を思ったのか無性に共有したくなった。残念ながらそんな勇気は持ち合わせていないので、代わりにGoogleで口コミ評価を調べ、考察を眺めながら二度映画を楽しむ。自分が目で見たものが他の人の視点が加わることでより味わい深いものになっていく感覚がたまらない。そんな口コミに釘付けになりながらサラリーマンの帰宅ラッシュと共に、ほんのりアルコールが香る午後9時半の車両で、朝とはまた違った景色の満員電車に押し潰されながら帰路についた。




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