残像に口紅を / #じょんならん日記
いつものように日記を書こうとしてみると、「最近読んだ本について書いてみないかい」とnoteに提案されたので、今日はそのおはなし。
残像に口紅を
「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい…。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。
僕がこの本を読むのは、実は2度目。
1回目は、どうだろう、もうはっきりと憶えてはいないが、恐らく小学校高学年から中学2年ほどの間だったように思う。
2回目は、昨日。コロナウイルスのニュースをあまり聞かなくなってきた代わりにメディアが衆院選で埋め尽くされている、そんな冬のはじまり。
とは言っても、本屋で見かけてたまたま懐かしくなり、ざっと目を通してみただけに過ぎない。
ここからは、本から感じたことをつらつらと、思いつくままに散文調で。
現象が先か言葉が先か
有名な話で、「虹の色は国によって違う」というものがある。日本では7色だが、どこかの民族では、3色ということもあるそうだ。みんなが同じ"現象"を見ていても、「青」と「blue」とでは、指し示す範囲が違う。
また、アフリカのどこかの少数民族には、「幸せ」という単語がないらしい。
彼らいわく「人が死ぬことと牛が死ぬこと以外は悲しくない」
「それ以外のこと=人生のほぼすべてが幸福」なので、幸せという単語さえ必要ない。
とのこと。
私たちは、現象を言葉にしているのか。それとも、言葉を通して現象を見ているのか。
世界から音が無くなると、概念も消えるのか
この本では、まず、「あ」が世界から消える。すると世界からは「愛」や「あなた」がなくなり、やがて全てが無くなっていき、何も残らなくなる。
例えば、私たちが、全く未知の言語の話者と喋るとき、「言いたいことが言葉にできない」ことはあっても、「言いたいことが何も頭に浮かばない」ことはない。
それは、私たちが日本語or他の言語をベースにベースに思考しているからであるが、もし仮に、生まれたての赤ちゃんを例に取った場合、どうなるか。
少なくとも、この本のように世界からその音を持つものが消えるわけではないが、全くそれを表す言葉を持たない概念があった場合、その概念は存在すると言えるのか。
消えゆく娘の残像に、必死で口紅を塗って忘れないように。
大切な人との記憶、別れ、出会い、。
この本のように、音が世界から消えていかなかったとしても、私たちの周りは、消えてゆくものばかりだ。
この日記を書くという行為も、消えゆく残像に口紅を塗っていることに他ならないのかも、しれない。