カール・バルトとの対話・「A Narrow Way」
カール・バルトによれば、神の国、すなわち命じ給う神ご自身――の力ある行為は、神によって創造された世界および(その中心にいる)人間への神の自由で恵深い慈しみという大いなる行動的<然り>なのである。
神の大いなる行動的<然り>は、人間の、<神からの自己疎外>、それと同時に<隣人からの自己疎外>、そしてとりわけ<自己自身からの自己疎外――己自身の規定と自然本性からの離反堕落――>への対立と闘いにおいて生起する。
神は人間に対して怒り給う。なぜなら、人間は神ご自身の心にかくも切実にかかっている大切な存在であるがゆえに。神は人間を裁き給う。人間に義をもたらすために。<神は、まさにその恵みにおいてこそ聖であり、まさにその憐れみにおいてこそ義であろうと欲し給う。>
人間は、神の永遠の憐れみによって生きるのであり、その憐れみの力は、神が人間自身を自由な者にし給うたということにある。それは、神が人間をご自身と和解せしめ給うたということである。
聖書の「ローマ信徒への手紙」に、「律法」について記述がある。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」自分自身が律法とは、私たちそれぞれの良心の自由に語る規範を意味しうる。
タイミングと失敗と努力、それから慈悲深い許しと、人びとの支えあってこその、歩みだと思う。僕にしか歩めない道がある。キリストの言葉を少し補足すれば、それぞれの「狭い門から入りなさい」、ということではないだろうか。
<参考文献>カール・バルト、天野有『キリスト教的生1』