生かされて生きている

可哀想な人にしない。

可哀想な人を探さない。

誰かに何かをしてあげることに自分の価値を見出してしまうとやりがちなこと。

求められてもないのに世話を焼いてしまう。

そういう人は大体やりすぎて自分が疲弊する。

私もどちらかといえば割とそちら側で生きてきた。

だけどある日の瞑想中にふと気づいた。

相手に何かを与えるということは何かをしてあげるということではないんだな。

いるだけで既に何かを与えているんだなと思えた。

そしてその与えられるものってきっと誰かから与えてもらったものだ。

生まれることも生きることもひとりではできないから。

いつでも誰かに与えてもらって生きている。

そんでそれをまた誰かに与えながら生きてるんだな。

生きてる、というだけで感謝でしかない。

藤井風さんの音楽が好きでよく聞くんだけど彼の曲にもそのような歌詞がある。

多分その解釈が私なりに腑に落ちた瞬間だったと思う。

彼の歌詞はすごく好きだ。

『満ちていく』『花』『grace』『帰ろう』『燃えよ』・・・

好きな曲がたくさん。

すべてはひとつ、なんて歌詞もいい感じのことくらいはわかっても腑に落ちるとこまではいかなかった。

それが今は口元緩んでなるほどねって思える。

彼の言葉で、”どうせ大丈夫”というのがある。

今はそれが腑に落ちそうになったきた。

まだだ。

どうせ大丈夫って思えたら、ずっと穏やかに生きていけそう。

きっと生きていれば大小の波は必ずあって、ずっと波風のない日々が続くわけではない。

でもその波風は学びの機会であり成長の機会でもある。

そうやって少しずつ自分で自分を苦しめるものを手放していくんだと思う。

だから絶望しないで無理をしないで自分の中をしっかりと見ていけばいいんだと思う。

肩の力を抜いて、完璧を諦めて、ひとりでもひとりじゃないってことをちゃんと思い出して。

嗚呼、有難い。

そう心底思える人間として死ぬまで生かされて生きたい。

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