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こんにちは、CODEの荒谷です。
沖縄滞在3日目ですが、すっかり肌の色が地元の人様になってきました。僕の感覚も旅人から暮らす感じのフェーズに入った気がします。良くも悪くも落ち着いて生活ができています。つまり慣れ始めてきたということ。

僕は仕事になるかわからなくても、面白そう!と思うとまず現地に赴きます。直感があってるか確認するためです。結果、毎月どこかしらに飛ぶという生活スタイルが身についたのですが、こういう生活しているとこんなことを聞かれます。

「荒谷君はいつ仕事をしているの?」

または

「荒谷君はいつ休んでいるの?」

この二つです。

結論から伝えましょう!

オフの日、オンの日って考えるのをやめました。

独立して3年目なのですが、いつの頃からかオンオフの区別するのをやめました。理由は、オフの日でも仕事のこと考えたり、思いついたらやっちゃうし、オンの日でも気分が乗らない、体調悪いなどパフォーマンスが悪い時は思い切って休みます。

こう言われると、確かに!となる方もいると思います。

ではオフの日って必要なのでしょうか?または、オフの日ってどういう意味で使ってますか?

身体の限界

東京に住んでいるので、旅先ではできる限り自然に触れる様な環境にいきます。仕事もPCやiPadを持って、川辺、海辺、森の中など色んなところで仕事してます。

ただのこの生活って最初は気分転換にもなり、非日常感が脳を刺激してくれるのですが、徐々に腰が悲鳴をあげはじめます。

自然界には、テーブルも椅子もないのでその場にある何かを使うか、地べたに座って作業します。この体制が腰に負荷をかけている様なのです。

さらに時間が経つと、お尻が痛くなったり、足が痛くなったりと身体中が悲鳴を上げはじめます。

そうすると、俺結構頑張ってるなーなんて思うと同時に、身体に申し訳なくなります。気分的には充実しているので、ついつい身体に気が回らなかった。

でもこれに似たことあるなと、思ったんですよ。会社の経営みたいなもんじゃないかと。

脳の怖いクセ

意識しない様にしてても、SNSやこのnoteのいいね!に一喜一憂しますし、褒められると頑張るタイプなので、そのためにどんどん仕事するわけです。

その結果、腰や足などを酷使するわけですが、人から褒めらるために、仕事を頑張るということに囚われると、身体を無視して仕事!仕事!となるわけです。

これは脳の一部の機能を極端に使ってしまっている結果なんですね。

結果、気付いたら身体は壊れ、仕事もできなくなるわけです。
だからこそ【オフの日】は大切であり、必要なのです。

これを会社に例えると、経営者がサービスを考え、従業員を酷使したとしても、人が倒れたり、減ってしまうとサービスが低下します。

福利厚生って大事なんだなーって最近気づきました。

そして、腰や足という個人という組織を、会社に喩えたわけですが、これをさらに大きくするとどうなるのだろうかと考えてみました。

かけがえのないモノ

僕にとっての「腰」が、会社にとっての「従業員」であれば、「会社」もまた何かの一部なのではないかということです。

たとえば「国」からしたら「会社」は一部だと言えるかもしれません。「国」にとってすごく良くない「会社」があったとしたらその会社は存続できないでしょうし、逆に、良い会社があれば国は助かるわけで、そういう会社は助けられるでしょう。

国と会社の関係は、経営者と従業員の関係に近いかもしれません。また、話を人体に戻すと、身体もかけがえのない一部であり、経営者が退陣してもその法人は昨日と同じように運営されているケースが多々ある以上、身体もまた代替可能であり、身体のパーツ毎に価値の違いはないと言えそうです。

つまり、僕たちはより巨大な組織の一部であり、俺はサラリーマンじゃないし!と言っている人も、震災などで世界からクビを切られることもあるわけです。

経営者も、アーティストも、スポーツ選手も、無職の人も人類はみな宇宙船地球号の乗組員であり、その一部が酷使されると、結局は全体のためにならないって話です。One for all, All for one!

余談

今日は一日制作するために、ビーチではなく町のコワーキングスペースで仕事してたんですが、気づいちゃったんですよね。

ちゃんとした椅子って、身体の負担が少なくてずっと作業できる!さすが人間!文明ってすごいなって。

結局これもバランスなんですかね。今日もありがとうございました!



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