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書くこと
私がnoteを書くことについて、
「結局見てくれる人たちがいるから書くんだ」ということを言ったことがある。
確かにこれはそうで、私はある程度読み手を想定しないとものを書けない人だ。自分だけの日記はつけられないということ。
しかしそれよりも先にくる目的があることに気がついた。それは、私の感情や経験を消化するためだ。
noteを書く上で読み手を想定するからには、自分の身に起こった出来事を書いているだけじゃあしょうがない部分がある。だから経験を一般化したり、おそらく、私が心がけているのは抽象化だと思う。そうやって自分が抱える感情を似たような出来事や別の主体や、全く違う出来事でも同一化できる側面にに重ね合わせて見るわけだ。
言語は思考のための道具だと思っている。私は、実は軽度だが吃る癖があるので(親しい人も気がついてないかもしれないけど)思考も吃る。スムーズに話すには、筆談は吃らないから最適らしく、しゃべるよりも書く方が頭が整理されやすいと感じていることに気がついた。
そうして思考され消化の過程を通り、私の悩みや苦しみや悲しみ、ましてや喜びや楽しさなんかも胸にストンと落とすことができるわけだ。
それに、私には恥ずかしさがない。
浮気されたのも、不倫されたのも、自分が浮気をするのも、不倫をするのも、人を殴ることも、血に興奮するのも、お酒で記憶をなくすのも、SMバーに勤めるのも、男ができて飛んだのも、幼少の傷も、父が引きこもりでアル中なのも、死んだことさえ、なにもかも、自分の身に起こることは私の糧らしい。
こういう見方もできる。私の身に起こることは、ネタにしないと消化できないのかもしれない。私はいつも、いじめられたって何されたっておもろい話にできればオッケーなのだ。教訓を添えてカテゴリ分けをしてエピソードにしたいのだ。私の糧にもなり、誰かの中でなんかおもろい話聞いたわとか、いろんな人生あるなとか、こいつ終わってんなとか、被害者ヅラすんなよとか、バカなのねとか思われたいらしい。いや、思われたいと積極的なときと、そうじゃない時とあるけれど。
自分の中でオチをつける練習、たぶんこれからもずっとするんだろうな。