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すいようび

実は無関係そうなところで人と人とは循環している。悲しみも、喜びも、怒りも、優しさもだ。

今日は、母が娘におもちゃを買ってきた。お医者さんの聴診器のようなやつだ。娘は私に幼稚園で絵を描いてきた。描いてきたのはなすびの絵だが、お手紙だと言った。私は恋人にコーヒーを買って行った。仕事で疲れてるのだろうというのと、あと、無糖ラテが好きなんじゃないかと思って。恋人は仕事のエクセルツールを黙々と作っていた。誰かの役に立つのだろう。そしてそうして受け取った優しさが多く伝播して、拡大したり縮小したりしていくのだ。

私が恋人に差し入れたコーヒーが私に返ってこなくても、ちょっと嬉しかったとかそんな些細なことでいい。私も誰かに思いやってもらって今があるのだ。私の気遣いが恋人からでなくとも、もしくは今すぐに返されずとも、きっとどこかで循環しまた必要なとき私に戻ってくるに違いない。もしくは持て余しているのかもしれない。水が、雲になり、雨になり、川になり、育み、海に流れるようなものだ。
私に必要なのは雨乞いをすることではなくて、些細な水を無駄にしないことだ。


実名にさんずいが入っているのは、あまり快く思ったことがなかった。
みずもの、ながれる、、あまり例を挙げるのは憚らられるが、水はあまりいい連想がないのだ。
縁起物ではないという意味で。多分気にしすぎなのだ。誕生日に原爆が落ちたとか、そういう。
ただ、手放しで考えると自分の名前は美しいなとも思う。私にあってある。私に他の名前をつけてもしっくりこないだろう。なんにせよ、今の名前とくるみちゃんで悩んでいたと言われればくるみではなくてよかった。

私は雄大な海のような、おしてひいては強い力をもつ波のような、満ちては引く潮のような、そうやってものの合間をすり抜けて満たしていくようなものに憧れているのかもしれない。

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