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前向きな話を前向きに書いたつもり

つらいときは誰かが助けてくれるものだった。

運動会で転んだら友だちが駆け寄ってきてくれたし、親と喧嘩したら慰めてくれたし、悪いことをしたら叱られた。

私は優しい世界に生きていて、いつまでも周囲の環境は私に優しいものだと思い込んでいたらしい。そんな優しい世界の中で孤独に浸っていた。誰かを本気で信じることが、誰かに本気で信じられることに繋がる理想郷で、なかなか本気で信じる人ができないことに悩んでいるようなことだ。

初めて恋人ができたとき、私は一人じゃないと思った。長いこと蝕まれた孤独感からついに解放されると思った。支え合えると。
もちろんそれは幻想で、私の相手に対する期待も大きかったし、相手は愛してくれと暴れた。

期待するのをやめたら、また孤独になっていって、今度は自分の気持ちを誰かに大きく傾けるようになった。「愛さないから愛されないのだ」みたいな。前向きな気持ちで接していれば、前向きな気持ちが返ってくると期待した。これで裏切られないだろうと。私は自分を消耗した。
私はまた失敗した、いつも通り、期待しすぎたのだ。

私は、努力したり頑張ったりしたら報われると信じていた。それは、努力も頑張りも報われてきたからで、今まで報われてきたのはその対象が自分自身だったから。自分への期待はかけてもかけても問題ない。たとえ失敗したとしても、必死だった自分を自分で慰めてやれるから。
だけど他者はちがうみたいだ。

人という字は、ひととひとが支え合ってできているのではなく
1人の人間が両足を大地につけて力強く踏み締めて立っている姿だ

今ならわかる、誰かに優しくされたいとか、誰かに認めてもらいたいとか、誰かに愛してほしいとか、そういう気持ちは、大事に胸の中にしまっておいた方がいいのだ。
そんな誰かは存在しないとか、甘えだとか、そんな悲しい言葉にするつもりはない。
認められたいとか愛されたいとか優しくされたいとかは、とても難しいことらしい。私がどうこうしたから、叶うものでもない。だからといって、諦めることでもない。

優しくされたいとかの気持ちが爆発しないように、今を見つめて自分を慰めて。そして罪を憎んで、人を憎まず。今を乗り越えるのが自分の課題だの使命だと意気込む必要もない。ただ見つめるだけでいい。

自分がしてほしいことは、自分にするし、他者にもするのがいい。大人になるってそういうことだろう。自分のことをいじめた人間が次の日食べるものがなくて飢えていたら余ってるご飯を分けてやればいい。
いじめっ子を優しくしていくなんて理想は持たず、自分の徳のためでもなく、ただ周りを見渡しただけだ。

意識の話を知っているだろうか。
私たちは意識を持って動くのに0.5秒かかるけれど、野球ではピッチャーの手から球が出てキャッチャーにたどり着くまでには0.4秒しかない。ではなぜバッターは打つことができるのか?
これは目で見てうとうとする前に、脳の無意識が手を動かすように指示を出しているからだと。

もうひとつ。人は言語能力は左脳が支配する。そして私たちは右目や右耳で聞いたことは左脳へ、左目や左耳で聞いたことは右脳で処理する。
分離脳、右脳と左脳を切り離された患者は、左脳が知っていること(右脳で見聞きしたこと)しか喋ることができないという事態に陥るわけだ。

このとき、左耳に頭を掻いてください、と指示を出すと、患者は右脳の判断で頭を掻くが、なぜ掻いたんですか?と質問すると、頭が痒かったからですと言う。

つまり、右脳にしか指示が届いてないため頭を掻いた理由を知らない左脳が、自分の行動に自分が納得がいく形で理由をつけるてしまったということだ。
私たちは無意識の決定に対して自分のもっともらしい理由づけをしてしまうということだ。
それほどまでに私たちの意識は無意識の行動に基づいているということ。(下引用)

私の中には、無意識に決定をしようとする自分、それに対して意識を持って理由づけをしようとする自分、それを立ち止まって判断する自分がいる。私が育てなければならないのは立ち止まって判断する自分なのだと思う。それが今まで、善悪とか使命、我慢というような強い言葉で判断していたけど、そうではなくて、もっと穏やかな基準にしようと思う。温かみがある決定かとか、そういう。
これから気の遠くなるような時間、それでも終わるときは短く感じるようなこの人生を、大地を踏み締めて歩いていけるようになりたい。

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