落ちこぼれのコーダ
1.はじめに
この文章は、2024年9月に、妻が所属している手話サークルから依頼を受けて、始めて自分自身と向き合って原稿をまとめてみたものです。こうやって発表する都合上、講演時と違って固有名詞などは書き換えてあります。また、手話サークルの人たちに向けた話なので少しやわらかめな表現にしている部分もあります。これを機会に、もっと自分自身やCODAのことを見つめていきたいと考えています。感想やご意見などいただければ嬉しいです。
2.私はコーダです
ここ数年、コーダという存在が脚光を浴びていて、いくつも映画が作られたりもしています。けれども、すべてのコーダが胸を張ってその境遇を語れるわけではないと思っています。私もそのひとりです。現場を離れた者が何を語れるのか、たくさんの引け目を感じながら、ここに立っているのです。
これは、ある一人のコーダの話。数多くいるコーダとろう親のひとつのサンプルです。私の経験で、すべてのコーダを語れるわけではありませんが、このサンプルから、コーダに共通する何かが得られれば幸いに思います。
私は、コーダには大別して二種類あると思います。ひとつはろう文化の仲介者となる者、もうひとつは引け目を感じてろう世界と距離を取る者。もちろん、それは固定的なものではなく、個人個人の体験や思考によって立ち位置は変わってきます。私も後者のひとりです。ろう社会を離れた者が今更、どの立場から何を語れるのか、たくさんの引け目を感じながら、しかし、コーダであることは動かしがたい事実だという位置に立って、ここでお話させていただこうとしています。
3.ヒーローと母と父
コーダの第一言語は手話です。日本語話者の子どもがひとつひとつ日本語での名前を知って世界を広げていくように、コーダの世界もまた、手話の名詞・単語によって広がっていきます。世界が広がっていくまばゆさは、すべての子どもたちに共通するものでしょう。
私の一番古い記憶は、五十音の積み木で文字を覚えていたこと。傍らにいた母が吃音で発音するのを聞きながら、ひらがなと音と指文字とを照らし合わせていた記憶があります。母が持っていた『あたらしい手話』という本の中に「おはよう」「こんにちは」「といれ」「ごはん」などいろんな言葉をみつけました。テレビから流れてくる日本語と、両親の手話とが、同時に家の中にありました。
また、私はおばあちゃん子でもあったので、祖母から住所や郵便番号や名前や一族の構成や親戚がどこにいるかといった事を教わりました。母にも祖母にも褒められるので、一生懸命覚えました。
幼稚園になると、ひらがな・アルファベット・漢字などのドリルを買ってもらって、それを書いては祖母や叔母に見せて褒めてもらっていました。アルファベットや漢字に母は詳しくなかったので、母に見せても「幼稚園生なのにすごいね」と褒めてはくれなかったのです。私は母が大好きでしたが、反面、私が世の中と繋がっていくための窓口は母ではない、という感覚も持っていたのだと思います。
コーダが手話と日本語との両方で世界を広げていったあと、幼稚園に通い始める頃になると、自分の親が周りの人とは違うということを知ります。そして、自分の知っている手話と日本語を駆使して、聞こえる人たちとろう親との通訳のようなものを始めます。
そうすると、ろう親からも聞こえる人たちからも、たくさんの賞賛とねぎらいの声をもらうのです。そうやって注目されることで、コーダは自分がヒーローになったように感じていきます。これは仕事で通訳をしている人たちとコーダとの決定的な違いだと思います。
私は、その時に「自分は万能なのではないか」という心地よさを感じたのを覚えています。そして、自分は一生、「ろう者と聴者との架け橋」のような役目をやり続けて、親のために生きていくのだ、という気持ちになっていました。
幼稚園の頃には母と一緒によく買い物に行っていました。合計金額を店の人が口頭で言うので、私がそれを手話で母に伝え、母がお金を払い、私は店の人に褒められる。それが誇らしくもありましたが、同時に「私がいたから無事に済んでいるけど、私がいなければどうなっていただろう」と考えて、漠然とした恐怖を感じてもいたのです。
この万能感は小学校三年生頃まで続きました。そして、私はなんとすごい(特別な、希少な、レアな)家に生まれたのだろう、と思っていたのでした。
その反面、私は重すぎる責任感のようなものを感じるようにもなっていました。
私が小学校1年の時のことです。骨折して長期入院した私に、両親がいろんな本を買ってくれました。その中に切手コレクションの本があり、私はその本に載っていた切手が欲しくなって母にねだりました。母は郵便局で問い合わせてくれたらしく、その切手はもう販売していないと教えてくれました。母からそれを聞いたとき、私は母につまらないおねだりをしたことを激しく嫌悪しました。現場をみているわけではないので、想像でしかありませんでしたが、母が郵便局の窓口に本を持って行き、吃音と筆談でそれを手に入れたいと一生懸命交渉してくれている姿、それに対して「ろう者がわけのわからないことを言っている」と困惑している郵便局員。そんなことを想像して、私は、母になんということをさせてしまったのだろうと後悔したのでした。
そんな感じで、日常的に私と過ごしてくれたのは母親が中心だったのですが、日曜日に自転車に乗せたり舟に乗せたりしていろんな場所へ連れて行ってくれたのは父親でした。アルバムを開くと、いろんな場面で、母の自転車の補助椅子に私が乗って笑っている写真と、父の自転車の補助椅子に私が乗って大泣きをしている写真が並べて貼ってあり、父が「この子はわしが嫌い」と笑っていました。
私が小学校高学年だった頃、鴨居を走るネズミに家族が悩まされていました。ある日の午前三時頃、父が鴨居を走るネズミをわしづかみにして生け捕り、その捕まえた二匹の野ねずみをポリバケツに入れて、熟睡中の家族をたたき起こし、その成果を見せびらかしてきたのです。その時の父の無邪気なはしゃぎっぷりはとても印象的でした。
また、ある時は、つかまり立ちを始めたばかりの弟が階段の三段目ぐらいのところまでよじ登って、そこで立ち上がったのです。つかまり立ちを始めたばかりの赤ん坊ですから、バランスを崩して頭から転げ落ちそうになりました。その瞬間、どこからともなく滑り込んできた父が、弟をしっかりと抱きかかえたのです。弟は無事でした。また別な日に、私が、浜に置いたバケツの中で口を開けていた巨大ハマグリを見て、「身が柔らかそうで、触ると気持ちよさそうだな」と思い、指を差し入れたところ、二枚貝がパックリと閉じてしまったのです。私は指がちぎれそうになって泣き叫びました。すると、そばにいた父が事もなげにカッターナイフを取り出して、貝柱をスパッと切り落としてくれました。私の指は無事でした。
私から見た父は、物事がどこまでわかっているのかわからなったけれど、健聴者にどんなひどいことをされたかということを、いつも怒りながら訴えていました。子煩悩で釣りが大好き。銛で魚を捕まえたり、舟を操って沖で魚を捕まえることができて、獲ったアナゴや鯛をその場でさばくことができます。そういった、海にまつわる技能や経験はとても高い人でした。ひとあたりがよく、家の外の人間に対してはいつもニコニコおどけて笑い上戸で、嫌われまいと懸命に対処していました。そのぶん、そんな父の思いが踏みにじられる事例に対しては、いつも怒っていました。父の怒りは、しばしば家族に向けられました。弟が理不尽に怒鳴りつけられることも何度もありました。なので当時の私は、父はゴリラのようだと思っていました。そのゴリラのような、物事の道理のわかっていない父が、感情にまかせて怒鳴りつける。それは発作のようなものなのだと思っていました。
でも、後になって気づいたことがあります。父が、感情を爆発させるときは必ず理解されていないときだったのです。自分は世の中に受け入れられるように努めているのに、その思いを我が息子が理解していない。気をつけるべきことを父なりに言葉にしているのに、それに対して息子が「なに?わからない」という表情をする。そんな時に父は、自分が理解されていないということに加えて、息子に馬鹿にされたような気がしたのだと思います。そういう時に、決まって感情を爆発させていたのです。
4.こうもり
コーダは、他者には聞き取りにくいでしょうが、ろう親の吃音を聞き取ることができます。なので、彼らが何をしゃべっているかわかるし、親に伝わる程度の手話やホームサインを使って生活できています。
ところが、家庭の外のろう世界に出ると、そこでは「正しい手話」が求められます。それで、とたんに自分とろう世界との距離・壁を感じてしまいます。その反面、コーダは、ろう者の子どもだという自負はあるので、「自分に手話ができないはずはない」とも思っています。しかし結局、現実としては圧倒的に語彙数が足りずに、簡単な会話しかできないのです。それを知った時、私は強いショックを受けました。
毎日毎日ろう親の通訳のようなことを続けていると、それが「当たり前」になってしまって、以前よりも賞賛してくれる声は減ってきます。また、年齢が長じるにつれて、思考や発想が「日本語」のほうにシフトしていきます。一日の大半を学校という聴者だけの世界にいるのですから、仕方のないことだったのかもしれません。しかし、次第に私の中でのバランスは崩れていきました。「どうしてウチは『普通』じゃないんだ!」といういらだちが生まれ、親の日本語の不自由さ、例えば助詞がうまく使えないとか、に対して軽蔑の心が生まれました。助詞だけではなく、受け身・疑問形・接続詞などなど、私はそのつど間違いを指摘し、母に「私はバカだ」と何度も言わせてしまいました。
手話と日本語は基本的に全く違います。手話は、発言と表情が常にセットですが、日本語には表情がほとんどありません。日本語は感情を文脈と行間で感じ取らせる言語です。ろう者が日本語を習得する事の困難さを知っていながら、父・母の、日本語のおぼつかなさに苛立っていました。
そして、手話で考えることは、より即時的で、より感情的で、より熱く、日本語で考えることは、より論理的で、より深く、よりクールだ。私はそう感じ、手話に「軽さ」を感じてしまったのだと思います。私は一層日本語で考え、学び、表現する時間が増えていきました。「私とはどんな存在だろうか」と考えるのも日本語でした。
中学校になって友人の数が増え、家の外での活動時間も少しずつ長くなっていきました。小学校まではみんな親のことを知っていましたが、中学校で新しく出会った友人たちにも親のことを知らせなければいけません。友人をたくさん家に連れてきていた記憶はあるので、その時に、母親を初めて見て驚かれるのが嫌だったので、事前にくどいほど話をしていたと思います。
高校1年の時は、学年始めの自己紹介で親がろう者だということを話しました。社会の授業やLHRで話題に取り上げたこともあります。自分から話題にしていくことは、自分と自分の家庭を守る方法のひとつだったのだと思います。そして、「自分はみんなの前で親がろう者であるということを言わなくてはいけない」という使命感のようなものを感じてもいたのです。
ろう者である親を、自分の家庭を、自分の置かれている立場を、愛してるし憎んでるし、邪魔だし利用してるし。どちらかではなくどちらも。だから私は自分の事を「鳥でも獣でもなく、鳥でも獣でもある『こうもり』なのだと思ってきました。この複雑な感情とずっと一緒に生きてきました。
コーダは常に複合的な視点を持たざるを得ない立場です。親に養ってもらいながら、親を庇護しなければならない立場。社会経験は圧倒的に親の方があるのに、知識は圧倒的に自分の方が多いという現実。
自分の親なのに他人に胸を張って紹介できないという感覚を誰と共有できるでしょうか。他人にウチの親子関係がわかるでしょうか。ウチの親がわかるのでしょうか。
コーダのそんな気持ちとは裏腹に世の中の人はとても無邪気に「ろう者の子どもなのに、手話ができないの?」と聞いてきました。その問いはダイレクトに私を刺しにきました。ろう親の吃音は聞き取れて、身振りに近い手話のようなものは使えて、ろう親と意思疎通はできて、今まで不自由を感じることはなかったのに、親以外のろう者とは意思疎通ができない。公の場所での通訳はできない。他者からの声だったのか、自分自身の内なる声だったのかはわからないけれど、それは私自身への負い目となっていったのでした。
次第に私は、「ろう者の子どもなのに」という言葉から逃げるようになりました。つまり、親とかかわることを避け始めたのです。でも、これは今思い返してみると、誰にでもある思春期であり、反抗期だったのかもしれません。「ろう者の子どもなのに、親の持っている言語世界の深いところに辿り着くことができない引け目」「親が考えているであろう深い思考を通訳できない事への引け目」「息子である私が到達し得ない内容の会話をしているのであろう通訳者への嫉妬と引け目」……。
幼い頃感じていた万能感はすっかり消えてしまい、それと入れ替わるように「おまえは主役ではない」という感情が私を支配しました。私は行き場をなくしてしまいました。そして、多くのコーダに共通することだと思うのですが、そんな思いを伝え合う仲間を見つけることができないのです。ろう者たちはネットワークで繋がっています。コーダは、コーダとして繋がる場がなかったのです。
母親が私に対して一番落胆した顔を見せたのは、私が高校生の頃、肢体不自由者の自立活動に賛同し、ボランティアとして泊まり介護に入り始めた時でした。「なぜろうあ団体の活動ではなく肢体不自由者とかかわろうとするのか」と問う母に、私は「ろう者も肢体不自由者も同じ社会的弱者だ。だから、どちらにかかわっても私の立場は変わらない」という言い訳を用意していました。
その肢体不自由者の自立運動の中で、私は「障害者にとって一番の差別者は家族なんだ」という訴えを聞きます。「あなたたち家族が障害者のためにと思ってやっていることが、すべて障害者の自由を奪っているんだ」という当事者からの声でした。
コーダである私には衝撃的な言葉でした。今まで「親のため」と思いながら、通訳のようなものをしていた時に、例えば、病院・役所・学校などで、正しい通訳ができず、内容をごまかして伝えたり、自分の判断で決めてしまったりしたこと、そのことを親に知られないままでいたこと。そこには「血縁者である」という甘えがありました。「代弁してあげている」という思い上がりがありました。それを障害をもつ当事者から「差別だ」と言われたように感じたのです。
幼少期の万能感は、親の障害をダシにした自己満足に過ぎなかったんだという自己否定にとらわれ、私は大学に入るという大義名分をもって、生まれ育った街から完全に逃げました。
5.落ちこぼれのコーダ
すべてから逃げて、新しい生活を始めた大学時代に、私は演劇と出会います。ある日のことです。私たちは、演劇の野外公演をするために、公園にステージを設置しようとしていました。そこに老人たちがゲートボールのスティックを持って集まり、スタッフに「ここで何をしているのか」と聞いてきたのです。どうやら、いつもこの公園でゲートボールをしている人たちのようでした。スタッフが困っていました。その様子を見た私は、すぐにその老人たちがろう者だと気づきました。「ここで説明できるのは私しかいない!」と思い、私は身振りと手話のようなもので、ろうの老人たちに事情を説明しました。
その時に、ろう者たちと劇団スタッフの両方からねぎらいと賞賛をもらったのです。久しく忘れていた感覚でした。たった数分の短い出来事でしたが、社会から逃げた先で、私は何か「大きな社会の一部」になれた気がしました。そして、ろう者とコミュニケーションがとれるということは、ひとつの特殊技能なのだということを体感したのでした。
とはいえ、その「社会の一部」になれたと思ったのはいっときのことだったし、ただ表面上の意思疎通ができたという事に過ぎず、「通訳ができた」というわけでもなかったので、誇らしい体験というまでには至らず、その体験も思いも、いつしか心の奥底に沈めていました。
私がろう者の子だからこうなのか、関係なくこうなのか。自分が主役になりたいのか。私は手話の世界を理解できないのではないだろうか。私は親の本音を理解できないのではないだろうか、私の本音を親に伝えられないのではないだろうか。そういったことのひとつひとつが、コーダを責め立てているのだと思います。むしゃくしゃする、もやもやする、触れて欲しくない、考えたくない。わかるようでわからない。そしてそんな、整理のつかない気持ちは、「○○ちゃん、頑張らないとダメだよ」「○○ちゃん、えらいね」といった、悪気のない賞賛やねぎらいや励ましの言葉で、ぶった切られてしまう。そんなときにコーダは、攻撃的な言葉や態度で反応してしまいやすいのだと思います。私もそうです。
コーダはその次に、そんなもやもやした悩みを誰かに訴えようと思います。けれども、訴えた相手からの「健聴者であるおまえよりも、ろう親の方が何十倍も苦労している」という言葉を想定してしまうのです。なので、誰にも訴えることができないまま口をつむがざるを得なくなります。これが、コーダが自分自身の問題を自ら表に出しにくい原因の大きなひとつなのだと思います。
親との軋轢を経て、親の持っているろう文化へと理解を進めることができて、手話を学び直すことができたコーダは、自分と親との関係を発信しやすいと思います。「つらいこともあったけれど、今は円満です」と言うことができるので、発信しにくい中でも、そういうコーダたちは、少しずつ前に出てきているのだと思います。
ろう者と聴者の架け橋にならなくてはならないと思っていながら、それが挫折してしまって、親と自分との関係すら胸を張って発言できない、半分以上はそんな落ちこぼれのコーダなのだと思います。
でも、今回私は、自分がそんな「落ちこぼれのコーダ」であるということを言わなければならないと思いました。大きなきっかけのひとつは、『デフ・ヴォイス』という作品で、宙ぶらりんのコーダという存在がNHKによってドラマ化されたことでした。このドラマをきっかけに、「落ちこぼれのコーダ」も経験を語るべきだと思う反面、まだ落ちこぼれのコーダそのものが当事者の言葉では発言できていないという事も同時に思ったのです。なぜなら、この『デフ・ヴォイス』という作品は、当事者が自分の半生を小説にしたわけではなく、小説にする技術を持った小説家が、その一つの題材としてコーダを選んだに過ぎないのですから。
ですが、これを出発点として、うまくいかなかったなあと負い目を感じているコーダも少しずつで良いからその経験をことばにしてほしいと思っています。それは、手話でも、日本語でも、何だって良いのです。自分が一番語りやすいことばで語って欲しいと思うのです。
6.それでいいんだよ
さて、私も年を取りました。両親も年を取りました。それでも両親と接近していくということに踏み切れないでいた中、妻が手話を学び始め、気がつけば私も巻き込まれたような形で、生まれ故郷のろう界隈とつながっていくことになりました。そこで私が見たのは、手話講師として、またろうあ協会の役員として日々頑張っている母の姿でした。
母はひとりのろう者として、全力で、やりたいことをやっています。私は負い目の中で、現実から目を背けて数十年を過ごしてきました。ですが、妻の仲介を経て、十数年ぶりに故郷に帰りました。両親とも会いました。その時、母は、逃げた息子をなじることもなく、ただ息子の成長を喜んでくれていました。
私たち親子の関係に「ろう者とコーダ」というレッテルが必要かどうかという照らし合わせは必要だと思います。十数年親に会わず過ごしてきた息子は「親不孝者」。それは、ただ単に「親に反抗して家を出て行った息子」であって、親がろう者だから、コーダだから、という問題ではないのかもしれません。
そんなことに、ふるさとを離れて長い時間過ごす中でやっと気づきました。
私は、ろう社会から離れたけれど、手話中心の生活はしていないけれど、私は私としての生活を営んでいます。コーダとしての経験は持ったまま。それはそれでいいのでしょう。
親はコーダとしての息子を、ろう社会の重要な一員にすることは叶わなかったけれど、自分たちのやりたいことをやってきて、それはそれでいいのでしょう。
どちらも、それでいいんだよ、ということをお互いに認め合いたいと思っています。
手話の講師をしている母親はとても誇らしげで、私も誇らしく思います。私は今、ろう者がいない職場にいるけれど、コーダとしての独特のものの見方は、常に役に立っています。私の意見が「普通だ」と言われたことは一度もありません。
望むべき形ではなかったかもしれませんが、お互いに引け目を感じることは何もないのです。
そして、思うのは、私の両親は、私が想像できる以上の、さまざまなことを経て、私を育ててきたんだなあということ。その約五十年の長さをすごみとして感じます。そして、それでようやく私は、障害のあるなしにかかわらず、親が子を育てるということのすごみを改めて思うのです。
そういえば、私はすごい(特別な、希少な、レアな)家に生まれてきたんだなあ。
私は、心配性でおしゃべりな母と、几帳面で周りの空気を読む父の子でなければこうはなっていません。それは実感せざるを得ません。それはかなしみであり、よろこびでもあるのです。
(2024年9月18日 M市手話サークルにて)