②ひとつの志(未来の希望をFFGに)
私たちが、FFG自然栽培法を発明して実践する目的は、生命循環心理学を学び、未来の子供たちや人類に多様性と才能の可能性を示すためで、その哲学的思想の基盤になるのが、ソロモンが残した言葉がその源泉であります。
どのような願いを込めて、人生の種を植えるのか、それこそ私たちの価値が判断される量心子です。
< コヘレトの言葉 >
それでも種をまく
『コヘレトの言葉』は旧約聖書の全文書の中においても、取り分け名言の宝庫とされている。同書からの引用や同書由来の慣用句は、ユダヤ教文化、及び復興ヘブライ語文化の評価を高め、かけがえのないものにしている。
『コヘレトの言葉』は知恵文学に属しており、コヘレトを介して、宗教、民族を超えた普遍的な疑問(人生の空しさ、諸行無常、「国破れて山河有り」といった国や社会について)の哲学的考察が試みられている。同書において提示される世界観は、旧約聖書の中で異色である。そのため、キリスト教やユダヤ教を信仰していない異教徒や無宗教者、さらに不可知論者などにも、大きな違和感を与えることが少なく、比較的馴染みやすい。
旧約聖書における一般的な思想からは、概ね次のような世界観が読み取れる。
それに対して、『コヘレトの言葉』では決定論に基づいた世界観が述べられている。義人も罪人も等しく死ぬことなど、この世のすべては定めがあり、その定めは決して変えることはできないと論ずる。もし、すべてが予定されているのならば、自由意志なるものは虚しい。すべてが予定されている世界では、普遍的な正義を行うことに、積極的な価値を見出すことができないのではないか、と論ずる。
『コヘレトの言葉』には厭世主義に基づいた思想が多分に含まれており、それだけでも十分、同書を異文化の世界観を持つ書物と見ることもできよう。その反面、人知の及ばない事柄は人間からは何もできないのであり、コヘレトはその人間をありのままの姿で肯定もするといった視点もある。この点はむしろ楽天的と評することも可能である。
『コヘレトの言葉』にはこういった思想が散見されるにもかかわらず、一方では神を畏れその戒めを守るべきことを説く箇所も少なくはなく、同書の結びの言葉も実にそれである。
このように、『コヘレトの言葉』が語る根本的な世界観は、必ずしも聖書全体を貫く世界観を乱すものではないといえる。
ソロモン
伝統的な解釈に従えば、賢者と讃えられたソロモンは、人生の意義と全生涯にわたって幸福を得るために必要な行いについて、論理的かつ哲学的な探求を実践していたとされている。その結果、一般的に幸福をもたらすとされる知恵、正義、女性、家族、財産、信仰といったものはむしろ相応しくなく、これらのものは絶対的な満足感をもたらすどころか、逆に欲望を増長させるに過ぎないと結論する。
ソロモンは人生の意義に有益な格言を見つけてはそれを自賛していたのだが、いつも次の瞬間には不満になり、なぜそれが格言として不適格なのかを解き明かす。いわく、格言とは人間に、痛み、苦しみ、虚しさをも覚えさせるというのであった。人生のあらゆる出来事を心に刻み込んだ晩年のこと、ソロモンは人生に秘められた真の意義と人間を幸福に導く生き方について熟考しているとき、ついに極意を得るに至る。それを言葉にしたのが、すでに引用した12章13節の一文である。
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