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ふたりの偉人

【はじめに】
最近、小説の方に力を入れていて、エッセイ的なものをあまり
書いておりませんでした。
今回は、ミラン・クンデラ氏と女優・モデルのジェーン・バーキン両氏の訃報に際して、寄稿させていただきます。
お付き合いいただければ幸いです。



 
 七月に悲しい知らせがあった。十一日にミラン・クンデラが、続いて十六日にはジェーン・バーキンが逝去した。二人はフランスをはじめ世界中に多大なる影響を与えた人たちである。著名な方々なので今さら説明の必要もないだろうが、僭越ながら簡単に紹介させていただく。


ミラン・クンデラ
(Wikipediaから画像を拝借しました)


 ミラン・クンデラはチェコスロバキア生まれの作家である。一九六八年「プラハの春」で改革への支持を表明したことにより、国籍を剥奪されフランスに亡命した。一九八一年にフランス市民権を取得して以来、精力的にフランス語での執筆活動に取り組んだ。冷戦下のチェコスロバキアを舞台とした恋愛小説「存在の耐えられない軽さ」は発売されるや否や世界的なベストセラーとなった。二〇一九年にはその功績が称えられ、チェコ国籍回復に至った。


ジェーン・バーキン
(Wikipediaから画像を拝借しました)


 ジェーン・バーキンはロンドン生まれの女優・歌手・モデルである。一九六八年に渡仏しセルジュ・ゲンズブールと出逢う。彼の全面的なバックアップにより彼女は爆発的な人気を得て、ファッションアイコンとして一世を風靡することになる。ちなみにフランスの老舗ブランドであるエルメスのバッグ「バーキン」は彼女の名前を冠したものである。活動家としても知られており、二〇一一年の東日本大震災の際には、来日し震災支援のチャリティーコンサートを行った。

 一見あまり関連性のなさそうな二人だが、彼らはともに、若いころの私に大きな影響を与えてくれた人たちである。さて、ここから先は少し思い出話にお付き合いいただきたい。



 
 話は私が大学生だった頃に遡る。当時の私は将来の展望など何もなく、就職活動すらしていなかった。働かなければ生きていけないことはわかっていたが、自分に与えられた自由な時間を出来る限り引き延ばしていたかったのだと思う。大学三年生になるとほとんどの単位を取り終えていたので、アルバイト以外の時間はぶらぶらしていた。CDショップを覗いたり、古着屋に立ち寄ったり、古本屋めぐりをしたりといったようなことだ。

 砂浜で貝殻を拾い集める子どものように、私は少しずつ自分の好きなものを心の中にストックしていった。眠れぬ夜に聴くサティの「ジムノペディ」。深夜テレビで放映されていたゴダールの「勝手にしやがれ」。ふと惹かれて買ったフランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」。そしてもちろん上記に挙げた「存在の耐えられない軽さ」。それらのものを宝箱の中にしまい込んではみたものの、それが何になるのかということについては考えていなかった。色とりどりの貝殻のようなピースを手にとって矯めつ眇めつ眺めるだけである。

 ある日ふと、思い立ってひとり旅をしようと思った。近づいてくるモラトリアムの終焉をうすうすと感じていたせいかもしれない。とにかく今だ、という気がした。思い立ったが吉日ということで、行先はどこにしようかと頭をひねった。ふと「フランス」というキーワードが浮かび上がってきた。それは本当に偶然だったのだけれど、当時好きになった小説や音楽や絵画などは、何かしらフランスにかかわりのあるものばかりだったのだ。




 十一月のある日、私は二泊三日の予定を組んでパリに旅立った。航空券やホテルの予約のみ旅行会社にお任せして、それ以外のことはフリープランという気ままな旅だった。今思えばかなり無謀だったと思う。フランス語なんてひとことも話せなかったし、案内してくれる知人がいたわけでもない。けれど幸いにして当時パリの治安は悪くなかったので、私のような外国人がひとりでふらふらしていても危険な目に遭うことはなかった(今現在のパリはどうだかわからない)。ガイドブックを頼りにエッフェル塔やルーブル美術館を訪れ、疲れたらチュイルリー公園のベンチに座ってサンドイッチをかじり、夜は思い切ってレストランで夕食を取った。終始ひとりだったが寂しいとは思わなかった。それよりも街の美しさに夢中になっていたのだ。



 絢爛豪華なオペラ座、凱旋門を彩るひかりの渦、ポンヌフ橋から眺めるセーヌ川の流れ。映画の中でしか知らなかったそれらの景色の中に、今、自分がいる。たとえ短い旅だとしても、この瞬間、私はパリにいるのだ。夕方の風の中に、誰かの香水の匂いとコーヒーの香りがまじって漂ってくる。勝手な思い込みだけれど、フランスが両手を広げて抱きしめてくれたような気がした。私は本気でパリに恋をしたのだった。

 そしてとうとうフランスを去る日がやってきた。冗談ではなく、悲しみのあまり魂がもぎとられるように感じた。せめてフランスらしい格好で去ろうと思って、大きなふわふわの帽子を被って空港に向かった。シャルルドゴール空港に着き飛行機に乗り込もうとすると、係員の方が何か話しかけてきた。ほほのすべすべした、明らかに若そうなフランス人の青年である。彼はしきりに私の帽子を指さして何かを言っている。もしかすると機内で帽子を被ってはいけないという規則でもあるのかと思い、私は帽子をとった。すると彼はすこし困ったような顔をし、それから笑顔を作って親指をぐいっと突き立てて見せた。それが「いいね!」という意味なのだということはさすがにわかった。私はちょっとほっとして、覚えたてのフランス語を口にした。「Merci.(ありがとう)」と。それは他愛のないことだったのだけれど、悲しみに暮れていた心を少し明るくしてくれた。きっとまたこの国に来ようと思った。



 私は帰国すると「フランスに留学する!」と家族に宣言した。両親はきっとびっくりしただろうと思う。つい先日まで「何をしていいかわからない」と言ってうだうだしていた娘が、急にフランスかぶれになって帰ってきたのだから。ともかく私はフランス語学習に本腰を入れるようになった。「フランス」と名の付く物なら何にでも飛びつき、貪るように味わった。先述のジェーン・バーキンの音楽もその一環である。少女のような儚い声で囁かれる歌詞の意味を知りたくて、辞書と首っ引きで歌詞カードを眺めた。ちっぽけな虫が無我夢中でひかりを目指すように、私の軌跡はでたらめだった。けれどその混沌とした道を照らしてくれるひかりに名前があるのだと知ったのは、大きな喜びだった。私が目指すのはフランスなのだと。

 
 あれから長い歳月が過ぎた。今、私はリヨン近郊の小さな街に住んでいる。フランスに来てよかったことのひとつは、私が憧れてやまない人々が生きていた軌跡に多少なりとも触れることが出来る点である。先に挙げたミラン・クンデラやジェーン・バーキンといった人物は、私にとっては伝説上の人物のように神々しく見えた。けれどフランスの人々にとってはもっと身近な存在だったようだ。生前の映像を探すと、彼らはインタビューに答えたり、ジョークを言ったり、ミュージックビデオの中で踊っていたりする。ああ、確かに彼らは生きていたのだと思う。そう、そして私も彼らと同じ国にいるのだ。フランスへの憧れに火を点けてくれたふたりの偉人に心から感謝を捧げると共に、ご冥福をお祈りしつつ筆をおく。

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