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マスクよ、さらば。

雨が降りそうだ(先週もそのようなことを書かなかったっけ)。雨はまるで約束したかのように土曜日の朝に訪れる。灰色の顔をした幽霊が、ふと窓辺に現れる。「こんにちは。僕だよ」と。

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「雨が降ると珈琲が飲みたくなる」と友人が昔言っていた。わからなくもない(というより、私は珈琲中毒なので晴れでも雨でも雪でも飲んでいるけれど。)私の場合は、ブラッド・メルドーの『ソング・ソング』が聴きたくなる。リヨンに来る前にストラスブールに留学していたことがあるのだが、その留学を終えて日本に帰国した直後に、よくこの曲を聴いていた。躰に刻まれた記憶は消えないものだ。憂鬱な空気をピアノの音がほんのすこし甘くしてくれる。

ポストイットがたくさん貼ってある机の前でこの文章を書いている。黄色やピンクや青色の紙に「カードサービス解約」だの「HP作成」だのと、すべきことがごちゃごちゃと書いてある。日々はめぐり、気づけば十月も終わりに近づいている。早いものだ。

せめて週一回は何かを投稿しようと思い、先日から『アリスのための即興曲』という短編を書き始めたのだが、やめてしまった (「スキ」してくださった方には申し訳ありません)。友人の体験談がベースになっているのだが、私にはそれを書く資格があるかどうかわからないし、何よりも自分自身がその出来事を消化できていないのかもしれない。それに加えて、自分の文体の未熟さの問題もある。いつかどこかで発表できればいいなとは思うのだが。

自分の文体を創り出すというのは、なかなか難しいことだ。どうしても好きな作家に似てしまうのだ。長い間その作家の本を読んでいなかったにも関わらず。それは音楽のように躰の奥深くに浸透していき、細胞と同化する。ある日ある時、そのリズムがどこからともなく現れる。真似をしているつもりはなくても、手が、脳が、その作家の言葉を模倣してしまうのだ。恐ろしいことである。

言い訳はよそう。何かを書かなくてはならない。

「小説を書く」というのは虚構の世界を生み出すことに他ならない。ノンフィクション作家は別かもしれないけれど、それにしたって作者の主観がちょっとでも混じらないとは言い切れない。では「嘘」だから出鱈目を書けばいいのかというと、それも違うと思う。虚構が本物らしく見えるように、そこにはある種のリアリティがなければならない。画家が紙の上に線を重ねるだけで、写真のように見事な景色を再現するように。そこに歪みがあれば、見る人にはわかってしまう。

では、虚構と真実を隔てるものとは何なのだろう。すべては嘘で、すべては真。私たちが思うよりもそのふたつは複雑に絡み合っているのではないだろうか。エッシャーのだまし絵のように。

エッシャー

昔、あるひとから言われたことがある。

「他人に対して噓をつくのは構わない。だけど、自分にだけは嘘をついてはいけない」と。

自分に対して正直に生きる、というのがこれほど難しいことだとは思わなかった。逆に言うと、どれほど嘘を重ねて生きてきたのだろう、ということだ。嘘には様々なサイズのものがあり、種類も豊富である。ガラス瓶に入った金平糖のように可愛らしいものもあれば、大蛇を入れた焼酎のような恐ろしいものもある。その中には、誰かにプレゼントしたものだってある。そしてそれぞれのガラス瓶のラベルには、「妥協」「みんな平等」「見栄」「諦め」「罪悪感」といった文句が貼り付けてある。そして私はそれらの嘘を並べた棚の前に立ち、ぐるりとコレクションを見渡す。よくもまあこれだけ集められたものだ。これだけの量の品揃えならば、いっそ店でも開こうかと思う。

化粧の技術が上達すれば素顔の平凡さを隠せるように、嘘だって上手になればこの世の中は生きていきやすくなる、そう思っていた。けれどそれは高くつく。化粧もマスクも外出する際に施すものであって、用が済めば自由に除去できるようになっている。けれどいつのまにかマスクは顔にぴったりと貼りついて離れなくなってしまった。私が息を吸えばマスクも息をする。私が笑えばマスクも笑う。私の顔を濡らす涙はガラスの宝石のようだし、口から出る言葉は死んだ花のようだろう。

ある日、誰かが私にこう訊くだろう。

「汝、健やかなる時も病める時も、マスクを伴侶として一生添い遂げることを誓うか」と。私は答える。「断じて、ノー」と。

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きっとそう言える日が来る。「マスクよ、さらば」と。皮肉なことだが、その日こそ私は自分自身の物語を書けるような気がする。誰かの真似ではなく、自分自身の真実として。

ブラッド・メルドーはいよいよリズミカルにピアノの鍵盤をたたいている。窓の外にはほんのすこし光が射している。私のいる部屋からは向かいの家の黄色い壁の建物の窓が飴細工のように輝いているのが見える。土曜日の午後の蜂蜜色のひかりは甘い眠りへと私を誘う。しかし仕事をしなければならない。今日はこれまで。読んでくださってありがとうございました。



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Sari
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