Chapter 2. Vol.2 答えのない問い
小説『黄昏のアポカリプス』というものを書いております。
ご興味ありましたら、ぜひ。
あらすじ
2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。
これまでの物語
Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2 片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く
Chapter 2
Vol.1 あきらの旅立ち
本編 Chapter 2. Vol.2 答えのない問い
機内には、二、三組の乗客がいる他、ほとんど無人だった。あきらは窓側の席に座り、色やかたちを変えていく雲をずっと眺めていた。それからふと思い出して母親の作ってくれた弁当を開けた。卵焼きはあきらの好きな甘い味で、ふたつのおにぎりの具は昆布と梅干しだった。指先に海苔がぺとぺとくっつく。ふっくらした米に梅干しの酸っぱさがほどよく絡み合う感じや、卵焼きの香ばしい焦げ具合などを少年はなつかしく思い出しながら食べていた。そして次に日本の料理が食べられるのはいつのことだろうと思った。未来はおそろしいほど空白だった。わかっているのは、飛行機を降りたら伯母が出迎えてくれること、そしてそれからしばらく彼女の家に世話になるということだけだった。けれどそれがどのくらいの期間になるのか、いつ日本に帰ることができるのかは不明だった。窓の外を見ていると、ひかりを吸った綿菓子のような雲に躰ごと吸い込まれてゆくような気がした。少年はその空間に永遠にたゆたっていたかった。時間というものなどはじめから存在していないみたいに。
12時間30分に及ぶフライトの後、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着した。そこからリヨン行きの便に乗り換え、さらに1時間ほどすると、飛行機はリヨン・サンテグジュペリ空港へと降り立った。時刻は午後6時45分だった。機体が傾くと、宝石箱のようにきらめく街が少年の目の前に迫ってきた。外に出ると空は漆黒の闇で、気の早い一番星が出ていた。空気は冷たく乾いていて、あきらのほほにぴりりと触れた。しかしそれは不快な感覚ではなかった。
ラウンジではこれまでに一度も聞いたことのない言葉が飛び交っていた。それはくもりの日に聴くピアノのように、深く、甘い音をしていた。中年の欧米人のグループがソファに座っていた。みな一様に黒いコートに身を包み、青白い肌と銀色の髪をしていた。彼らはあきらには理解できない言葉で何かを熱心に話し込んでいた。ふと、彼らの訝しげな視線とあきらのそれとが交わった。一見したところ、あきらは空港で唯一のアジア人だった。おまけに少年は大きな革の鞄を肩から下げ、手にはお土産を入れた紙袋を持っていて、歩くたびにかさこそと音がした。そのせいで彼は余計に注目を集めているような気がした。少年はきまり悪く感じ、足早に税関へ向かった。
「そうだ、マイクロチップをオンにしておかなきゃ」と少年は思った。飛行中は電子機器の使用を禁止するとのアナウンスがあったため、あきらはマイクロチップをオフにしていたのだ。税関へと続く長い廊下を歩きながら、少年は設定をオンにし直した。フランスの空港にもやはり旅行客はあまりいないようで、5分も待たないうちにあきらの番が来た。
「ボンジュール」と係員の男性が言った。50代くらいの小柄な男性で、白っぽいあご髭を生やし、小さな丸い眼鏡の奥から少年を見つめている。どことなく気難しい山羊といった感じだ。
「ボンジュール」とあきらも答えた。父親のでたらめなフランス語講座が早速役に立ったのだ。
さて、ここから先はマイクロチップで相手の言うことを読み取り、自動翻訳すれば事足りるはずだ。少年は海外旅行をするのは初めてだったが、コミュニケーションの点ではまったく心配していなかった。
山羊に似た男性がぼそぼそと何かを言った。少年は左手のリモコンで「翻訳機能」をセットした。しかしマイクロチップは何の情報も提示しない。少年は二、三度同じ操作を試みたが、やはり同じだった。山羊氏はいらだったように、同じ言葉をもっと大きな声でくりかえした。どうやら「パスポート」と言っているらしかった。少年はあわててパスポートを提示した。男性はパスポートを受け取ると、ひっくり返したり、あきらの顔写真をしげしげと眺めたりした後、ふんと鼻先で笑った。
「ジャパニーズ?」と彼は英語で尋ねた。そのくらいの言葉なら、小学校で習ったのであきらも知っている。
「イエス」とあきらは答えた。
山羊氏は満足そうに笑った。そして人差し指をこめかみに当てしばらく何かを思案していたが、やがて親指をぐいと突き立てて言った。
「アリガト、ガンバッテ」
そして男性は手でドアの方を指さした。あきらはほっとして出口へ向かった。
怖いおじさんかと思ったけど、あんがい優しいひとなのかもしれないな、と少年は考えた。それにしてもどうしてマイクロチップが使えなかったんだろう。まさか…。その先を想像すると背筋がひやりとした。
バグの初期症状は、ちょっとした物忘れや、マイクロチップの機能低下といった些細なことから始まるのだと、ある日父親は少年に説明した。その時は少しおかしいかなと思う程度で、本人もまわりのひとも症状を見過ごしてしまう。その段階では痛みや発熱などの症状はないし、日常生活を送るのに支障もない。だからほとんどの人々は気にも留めない。しかしその状態を放置しておくと症状が悪化し、気が付いたころには取り返しのつかないステージに来てしまう。おそろしいのは、感染から発症までの時間はひとによって全く違うという点だ。一週間で症状が出ることもあるし、一年間なにもなく過ごすケースも存在する。そしてある程度症状が進行してからでないと、現在の電子工学及び医療機関では診断の下しようがないのだ。もちろん治療薬も存在しない。政府はマイクロチップの使用を最小限に留めるようにと呼びかけるくらいしか出来なかった。
こうした理由で、父親は少年に日記をつけるようにと提案した。自分と他人をよく観察すること。どんなに小さな変化でも見逃さないこと。マイクロチップの情報に頼らず、自分の頭で考える訓練をすること。これらのアドバイスに従って、少年は小さなノートに日々の出来事を書き記すようになっていた。彼はもちろんそのノートをフランスにも持ってきていた。あきらは立ち止まり、ロビーの椅子に座って鞄からノートを取り出すと、次のように書いた。
少年はノートを閉じ、立ち上がると手荷物受取場に向かって歩き出した。
あきらはスーツケースを受け取り、出口に向かった。スーツ姿の白人の男性が足早に歩いてきて、あきらとぶつかった。彼はあきらには分からない言語で何か詫びの言葉らしきものを告げ、また慌ただしく去っていった。マイクロチップはやはり何の情報も提示しなかった。何かがおかしい。
初めて降り立った国の見知らぬ空港で、彼はほとんど泣きそうになっていた。落ち着け、落ち着くんだと自分に言い聞かせた。まさかここでバグを起こしたのだろうかという疑念が黒い雲のように湧き出てきた。それはむくむくと膨らんで、彼の胸を締め付けた。出発前に見た新井の姿が脳裏によみがえってきた。あっちこっちに飛び出た目玉、だらりと垂れた舌、残った生命のかけらで必死に追いかけてくる姿。いやだ、と彼は思った。あんな風になりたくない。こんなところで死にたくない。ちくしょう、フランスになんて来るんじゃなかった。彼はおぼつかない足取りで、出口に向かって歩き出した。
空港の出口で伯母があきらを待っていた。彼女は日本人の女性にしては背の高いほうで、ハイヒールを履くと170㎝近くになる。黒い革のコートにベージュのマフラー、それにサングラスといった恰好で、煙草を吸いながら到着口を見つめている。由香梨はあきらの姿を認めると、煙草をその辺にポイと捨て(『空港内全面禁煙』の看板には目もくれず)、大きく手を振った。そして青白い顔をした少年を抱きしめると、ほほをぴったりと押しつけた。彼女の髪の毛からベルガモットのはじけるような香りがした。あきらは何がなんだかわからなかった。伯母にはもう10年ほど会っていなかった。しかもあきらが小さなころに二、三度遊びに来たことがあるだけで、実質上はほとんど見知らぬ女性と言っていい。その女性があきらの小さな躰を羽交い絞めにせんばかりに抱きしめているのだ。それがフランス式のあいさつであると少年が知ったのは、だいぶ後になってからのことだった。由香梨はやっと少年を解放し、サングラスを外した。少し皺のあるものの、みずみずしい肌は上気し、明るい瞳は楽しげに輝いていた。
「ひさしぶりね、あきら。すっかり大きくなったじゃない!飛行機の旅はどうだった?あら、顔色が悪いわね。疲れてるんじゃない?家に帰ったらゆっくりするといいわ。さあ、行きましょう!」
由香梨はあきらに返事をする間を与えず、ひとりで勝手にしゃべり、少年のスーツケースをトランクに放り込むと彼を車に乗せた。それはよく磨きこまれたボルドー色のイタリア車だった。車体は低く、フォームは流線形を成しており、厚底ブーツのようなころりとした車輪がついていた。車内は適度に温められており、ほのかなシトラスミントの香りが漂っていた。運転中、彼女は休みなく話し続けた。
「ご両親はお元気?江梨ちゃんはどう?あいかわらず泣き虫なのかしら。ねえ、あきらはフランスに来たことがある?これが初めてよね。違う?」
彼女の言葉は気まぐれな音符のように宙に散らばり、そのひとつひとつがあっちを向いたりこっちを向いたりしているので、少年にはうまく捕まえることができなかった。
由香梨は少年の困惑には構わず、話し続けている。トンネルを抜けたところで、車は渋滞につかまってしまった。彼女はいらだたしげにハンドルを叩いていたが、ふと助手席のあきらの方を向いた。さっきから彼はひとことも発していなかった。
「ねえ、具合でも悪いの?」と伯母が訊いた。
あきらは首を振った。とてもではないが気軽におしゃべりしたいと思えるような心境ではなかった。由香梨は肩をすくめ、煙草を吸ってもいいかと尋ねた。あきらはかすかに頷いた。彼女はほんの少し窓を開け、煙草に火を点けた。煙がゆらめいて、蛇のように窓の外に消えていった。それは父親が吸っていた煙草の煙を少年に思い出させた。
「マイクロチップが使えないのは変な感じでしょう」ふと由香梨が言った。あきらは伯母の方を見た。彼女はあいかわらず煙草の煙を吐きながら話し続けた。
「フランスでもね、以前はマイクロチップ制度だったのよ。2033年に廃止されたけどね。私はそのときパリの音楽院の学生だったの。ある日、誰だったか有名人が感染してね。影響力があるひとだったから、後追い自殺をする人々が続出したの。当然、大きな社会問題になったわ。それ以来マイクロチップはやめましょうってことになったの。びっくりしたわよ、今まで何の苦労もなく知ることのできた情報が、翌日から消えちゃったんだもの」
「お父さ…、父からすこし聞きました」あきらはやっと口を開いた。
由香梨は少年を見てにっこりした。
「心配しないで。ここの国でマイクロチップが使えないのはバグじゃないわ。うーん、どう言えばいいかしらね」
彼女はそこでちょっと言葉を切って思案した。
「そうね、インターネットの回線を思い浮かべてみて。今や世界中のどこでもネットワークが張り巡らされているから、よほどの僻地に行かない限りインターネットが使えないということはありえないわよね」
少年は頷いた。
「でも、その回線を引くことを拒否した国があるとしたらどう?その国では、どんなに高性能の携帯電話やパソコンを持っていても、ネットを通じてのコミュニケーションは不可能よね」
少年はまたもや頷いた。
「じゃあ、インターネット回線をマイクロチップに置き換えてみて。そして回線が通ってない国がここ、フランスってわけ」
少年は背もたれに深く寄りかかり、ため息をついた。安堵がひしひしと全身に広がっていった。あたたかい雲のような何かが少年の胸をひたし、それは涙のかたまりになって喉の奥を締め付けた。けれど少年は伯母の前で泣くのはいやだったので、窓の方を向いた。窓の外では渋滞待ちの車のライトが連なってきらめいていた。なぜだかそれはあきらを援護する軍隊のように思われた。あきらはしばらくそれを見つめていた。しかしやがてまた別のある考えが少年の脳裏に浮かんできた。あきらは伯母の方に向き直った。
「でも、待ってください。確か48時間マイクロチップを切ったままにしていると、死んだことになるらしいんです。国連の放送でそう言っていました」と少年は言った。
「ああ、それはマイクロチップを使える国で、意図的に接続を切ったままにしておいたら、ってことでしょう?
それなら心配しなくていいわ。フランスはほとんど治外法権みたいなものだから、あなたがここに着いた時点で
政府には居場所が特定できないみたいなの。まあ、行方不明みたいなものよね。大丈夫。彼らだって暇じゃない
んだから、日本国民がひとりくらい消えたって別にどうってことないわよ」
由香梨はこともなげに言った。
それは断定的と言ってもいい口調だった。1足す1は2に決まってるじゃないの、お馬鹿さん、とでもいうように。それであきらは浮かんできたいくつもの疑問を忘れてしまった。車の列が動き出した。由香梨は備え付けの灰皿に吸い殻を捨てると、また何事もなかったように車を走らせた。車の動きに合わせて、あきらの脳もまた速度を上げ始めた。
そんなにかんたんな話なら、日本人が全員フランスに来ればいいのではないかとあきらは思った。お父さんやお母さんはどうして来ちゃいけないんだっけ?ああ、確か20歳以上の大人は国外から出てはいけないんだったっけ。どうしてかって言うと、日本国民としてのギムを果たさなくちゃいけないから。でもギムって何だろう。お父さんはバグを退治するのに必死にがんばっていて、お母さんは配給食から毎日ご飯を作ってくれている。それだけじゃ、だめなのかな。
あきらの頭の中にこれらの考えが一気に押し寄せてきた。いつもだったら、日本国民の義務についての情報をマイクロチップが直ちに提供してくれるはずだった。けれどここでは事情が違った。答えのない問いがあるのだということを、少年はその日はじめて知った。彼の脳は熱を帯びて、爆発しそうだった。電池の切れたおもちゃの車みたいに、彼はいつのまにか眠ってしまった。