そして素晴らしき世界。
湯気でくもった天窓のむこうの空はミルク色に澱んでいる。指先がつめたい。16時16分の空は時を忘れたようだ。時間という縦軸をうしなった鳥たちが、糸の切れたビーズみたいにばらばらと空に散らばっている。
11月9日、マクロン大統領が国民に向けてテレビ演説を行った。コロナウィルスの感染状況・衛生措置、雇用・経済・医療政策、警備強化、エネルギー、投資の強化、そして欧州との連携などについての演説である。それとても、フランス国民の不安をなだめるどころかあおる結果に終わってしまった。フランスの情勢はあいかわらず先行き不透明である。移民問題、コロナ問題、政治不安、金融危機。熱いジンジャーティーを飲むように、それらの問題が喉の奥で溶けていってくれればいいのにと思う。
友人と私は、ポーランドに移住でもしようかなんて冗談まじりに話すようになった。なぜポーランドなのかというと、東欧の国々は西欧諸国と比べて伝統的な価値観を重んじており、移民問題で頭を悩ますフランスとは趣が異なるからだ。
ポーランド語なるものはいかなる言語なのか。冠詞、前置詞、八つの人称変化とそれに伴う動詞の変化、さまざまな時制と態。そのような言語系列の並びに慣れていた私は、ポーランド語の説明ビデオをすこし観ただけでひっくり返りそうになった。その言語の成り立ちが、フランス語(あるいはその他のラテン系言語)とはまったく違うのである。その説明ビデオによると、名詞には七つの格変化というものがあり、その変化によってその言葉が主語なのか、目的語なのか、場所を表す補語なのかが決まってくるというのだ。例えば「猫はかわいい」という風に主語として使われるのなら、「猫は」にあたる言葉は "kot" になり、「猫を飼っている」のように目的語なら、"kota"と変化するらしい。以前、大学でほんの少しだけ学んだことのあるラテン語に似ているような気がする。
携帯電話に入れたポーランド語学習アプリケーションで、「プロ―シャ」(どういたしまして)、「ターク」(はい)、「チェーシチ」(こんにちは)などと夢遊病者のように十分ほどつぶやいていると、脳みその中がぼやけた海綿のようになってきたのでそのでたらめな言語学習を終えた。そう、なんといっても先のことはわからないのだ。ただでさえゆらゆらとしていて、どうにも頼りない私の頭である。これ以上なにかをつめこんだら爆発してしまう。電子レンジの中で無残に飛び散るスイートコーンのように。
きっと私の脳みそは、幼いころ宇宙人にそっと盗まれて、私のあずかり知らぬうちに遺伝子操作実験にでも参加させられたのではないかと思う。宇宙人たちは眠っている私の躰を銀色に輝く宇宙船に乗せて遠く地球を離れ、秘密基地に連れ帰り、その鋭い爪で私の頭をきこきこと開け、脳みそを電子レンジに入れてしまったのだ。爆発。ジ・エンド。そして彼らはその脳みその残骸にマイクロチップだのなんだのを埋め込み、私の頭の中にそっと戻し、傷口を丁寧に縫いあわせ、幼い私の躰を抱きかかえて地球に送り届けたのだろう。そうでもないと、こんなにも人間としての機能があちこち壊れていることの説明がつかないではないか。
地球に戻ってからの私の生活は、そういったわけで、どうにもぎくしゃくとしたものだった。水泳では二十五メートルを泳げず撃沈し、高校二年生になるまで自転車の乗り方がわからなかった。書店でアルバイトをすれば五千円札と一万円札を間違えてクビになり、ようやく社会人として働き始めたのは二十七歳の夏だった。海外旅行に行けば渡航先の空港で荷物がなくなるというハプニングに三回も見舞われた。このような私であるから、フランスに留学が決まったと言えば「そもそもこの子は飛行機に乗れるのだろうか」と家族を心配させてしまうのも無理はない。けれどそれは宇宙人の仕込んだマイクロチップによって定められたことなので、私にはいかんともしがたいのである。
彼らのメッセージはいたるところに隠されている。幼いころに聴いたドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』。はじめてその曲を聴いた時、午睡のまどろみの中に自分自身が溶けて消えゆくような、もったりとしたおそろしい気持ちを抱いたものだ。深夜、眠れずふとつけたテレビではゴダールの『気狂いピエロ』が放送されている。ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが詩のように難解で美しい台詞を口にしている。それから古本屋で目にしたボードレールの『悪の華』。古本特有の甘い匂いの奥から、薔薇のような言葉が立ち昇ってくる。退屈な日々に散りばめられたそれらの粒たちは月の光を浴びて真珠のようにきらめきはじめた。そしてそれらの粒を貫く糸は「フランス」だった。こうして私は宇宙人からのメッセージをひとつひとつ丁寧につなぎあわせ、その糸を頼りにここまで来たというわけだ。
まだら模様の雲のすきまを縫って月の光がこぼれる夜、私は台所の天窓を見上げていた。時刻は11時11分だった。窓の外でコツコツと音がした。しかしそこには誰もいない。それもそのはず、3階建てのアパートの最上階の屋根に誰かがいようはずもない。部屋に戻ろうとするともう一度音がした。コツコツ。ふたたび天窓を覗くと、そこには白い鳩がいた。月のかけらをそっくりそのまま流し込んだような、美しい鳥だった。まるで「気をつけ」の姿勢のように羽根をぴったりとしまいこみ、鳩は透明な硝子板の上を行ったり来たりしている。ふと、鳩と私の目が合った。沈黙。そいつはぐっと首をもたげ、私をもっとよく観察しようとするようにキトキトと目を動かした。無表情な黒い目の中に、私の姿が映っていた。鳩は言った。
「オマエは ダレだ」
金属的で耳ざわりな声だった。正確に言うとそれは鳩の声とは言い難かった。だって鳩がしゃべりかけてくるなんて茶番をどう信じればいいというのだろう。しかしその声は確かにどこかから聞こえてきた。それは空気を震わせて私の頭の中に直接入り込んできた。脳みそのもっともやわらかいところを銀色の針で突きさすみたいに。ひどい耳鳴りがした。鳩は硝子越しに私をじっと見た。一秒を何百倍もの長さに引き伸ばしたような時間が過ぎた。やがて鳩は言った。
「オマエか。オマエのおかげで いいジッケンが デキタ。脳ミソは ダイジョウブカ」
脳ミソ?ジッケン?いったい何の話だ。私の頭はきしきしと音を立て、カオスの中で火の車のように廻りはじめた。鳩は小気味よさげに羽根を伸ばし、躰を震わせた。
「ワスレタのか。ニンゲンの ズノウの働キは まことに チッポケだな。マアイイ。コチラは 貴重ナ データを 入手デキタワケダカラ」
私の頭の中に銀色の宇宙船の映像が現れた。あの目のくらむような光。鋭角的な爪をした宇宙人たち。電子レンジに入れられてしまったかわいそうな脳みそ。頭から水をかけられたように、血がさっと冷えた。指先が細かく震え、心臓が狂ったように暴れはじめた。私は天窓の向こうに向かって叫んだ。
「誰だか知らないけど、私の脳みそを返してよ!あなたたちのせいで私は欠陥品になってしまったんだわ」
夜の11時過ぎにアパートの台所で白い息を吐きながら天窓の鳩に向かって怒鳴るなんて、どう考えても滑稽なシーンだった。けれど私はそうせずにはいられなかった。血がマグマのように沸騰して口から飛び出しそうだった。鳩はあいかわらず落ち着き払って、例のとろりとした黒い目で私を見た。そして言った。
「心配スルナ。オマエの 脳ミソの一部を カリタが、オマエには 不必要なモノダッタからだ。ソノカワリニ マイクロチップで埋め合わせヲシタ。オマエに必要なモノは すべて揃ッテイル。オマエは すべてを手にシテイル」
鳩はその毛糸玉のような躰に桃色の嘴をつっこんで毛繕いをすると、ぐいと頭を持ち上げて空を見上げた。そしてしばらく無言で濃紺色の空を見ていた。まるで月への距離を測っているみたいに。やがて白い羽根を震わせて鳩は天へと飛び立っていった。光の粒がきらきらとこぼれ落ちてきて、私のほほを照らした。私はぼうふらのようにそこに立ち、しばらく鳩の去っていった方角を見ていた。
躰が冷えてきたので台所を離れて部屋に戻ると、私の机に置かれたパソコンの前に小さなキャンドルが灯っていた。アップルシナモンの甘い香りが部屋を満たし、あたたかな蜂蜜色の光が部屋の壁に踊っている。パソコンを立ち上げ、Yotubeのビデオをクリックするとルイ・アームストロングが『ワット・ア・ワンダフルワールド』を歌いはじめた。彼はホットココアのような甘い声でこう歌っていた。
「緑の樹々が見える
それに赤い薔薇も
僕と君のためにそれらが花開くのが見える
そしてひとり思う
なんて素晴らしい世界だろう」
幸せになるのに必要なものは、ここにすべて揃っている。こんなにも頼りない自分が、不確かなこの世界で生きてこられたことこそが、小さな奇跡の連続から成り立っているのだ。だとすだとればきっと明日もあさっても生きていける。そのように思い、私は今夜も静かな眠りにつくだろう。