馬鹿
ぎゅっとなった、その胸は確かな痛みを覚えて、ときめきを主張している。昔覚えた魔法も呪文も、もはや意味がない。
鏡の前で、愛しい名前を口にした。それだけで涙が溢れてきた。馬鹿みたいに、いま、恋をしている。いや、みたいじゃなくてきっと馬鹿なんだ。「馬鹿」って、こういう時に使う言葉なんだ。
新しいチークを買った。オレンジ系の色彩。さっそくそれを予行演習する。少しはかわいく見えるだろうか。でも、あの人の好きな色を、まだ知らない。
そういえば、血液型も誕生日も(当然星座も)知らない。だから、占えっこないんだ。せめて水瓶座A型との相性を調べておきたかった。どうか、さそり座ではありませんように。
ちょっと背伸びしたワイン色のワンピースが、明日の戦闘服だ。駅前の雑貨屋さんで一目惚れして買った。ふんぱつした、それでも欲しかった。
そう、一目惚れだった。あの人には、一瞬で打ちのめされた。悔しい。こんな気持ちは生まれて初めてで、だからそれをどう処すればいいのか、まったくわからなかった。
ただ、進むしかないと思った。なんとかデートの約束を取りつけて、明日はいよいよ新宿三丁目のカフェで、気持ちをぶつけるのだ。
もう一度、名前を呼んだ。やはり涙が込み上げてくる。この想いは本物だ。
「馬鹿」。
馬鹿になれ、当たっても砕けるな、間違っても逃げ出すな、立て、いつもよりかわいい自分で、ぶつかれ!
恋は人を馬鹿にする。それを身をもって感じて臨む戦いは、いよいよ明日。天気予報は曇りのち晴れ。挑むにはもってこいだ。
「馬鹿」。
こんなに心が乱れて、同時にあたたかくなるなんて、これ一体どんな感情だよ。私の、馬鹿。
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。