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ゆく夏に穿つ 6

第一章 <心臓の形(五)> 

奥多摩よつばクリニックには、消毒液と汗の混ざったような病院独特臭いはまったくしない。それどころか、木造ならではの心地よさをそよ風が助けて、気持ちが安らぐような心地すらする。

美奈子はしばらくの間、入院病棟へと続く廊下の壁に飾られている、入院患者たちが作業療法の一環で描いたとみられる水彩画やちぎり絵を眺めていた。

普段は他の外来患者や医療事務の人たちの話し声などで気がつかなかったが、ここは風の声を聞くのに最適な場所かもしれない。

美奈子はこの奥多摩を自由に駆ける風ともっと話をしてみたくて、そっと耳を澄ませた。すぐにふわりとそよ風が遊びにやってきて彼女と戯れる。耳もとのピアスのルビーを模したビーズが、ゆらゆらと揺れる。

廊下に飾られている作品の多くは四季の花々を描いたものだ。中にはコラージュ療法を兼ねているものもあり、眺めるとそれだけで気持ちが和らいでいく。

美奈子はふと「何か」を感じ、廊下の最奥、入院病棟寄りのひさしが突き出ているその下に、明らかに他の作品とは質を異にする作品がひっそりと掛けられているのに気づいた。

それは画用紙一面に、緋色、朱色、紅色、茜色、えんじ色、マゼンタ、ワインレッド……あらゆる種類の「赤」が塗りたくられている絵だった。美奈子はその色使いや色彩の容赦ない重なり方に鬼気迫るものを感じ、思わず後ずさりして反対側の壁に体をもたれさせた。

先刻から、ここには涼しい風が吹き抜けてくれている。しかし、なぜかしら美奈子の鼓動は徐々に高まり、ほの白い頬にはじわりと汗が浮かんでいた。全身の感覚が研ぎ澄まされていくような、不可思議な感覚を覚える。

突如としてその場の時間が止まったかのように凪が訪れ、散々喚いていた蝉たちが一斉に鳴き止んだ。それは一瞬のことであったにもかかわらず、彼女の耳が果たして、「その声」を捉えた。

のびやかに歌うような、しかしどこか悲しそうな、それでいて全く感情のこもっていないような、つかみどころのない声が、美奈子の耳朶に触れる。

次の刹那、蝉たちが大合唱を再開し、少し強気な風がクリニック廊下の小窓を軽やかに鳴らした。それでも、感覚の研ぎ澄まされた美奈子の鼓膜が「その声」を逃すことはなかった。彼女は背中越しに、朗々と語りかけるような声を感じた。

雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思えるのであった。

美奈子は両のつま先がしびれるような衝撃を受けた。その声が、中原中也の詩集「在りし日の歌」の「雪の賦」を辿っていたからだ。

美奈子にとって中原中也は、他の詩人とは一線を画す存在なのだ。ゆえに「その声」が読み上げる雪の賦は、美奈子の心に深く沁みいってくる。そして「その声」が「赤」の呪縛を解く魔法であるかのように、彼女の心と体が穏やかになっていった。

美奈子は目を閉じ胸元に右手をあて、深呼吸をする。

ゆったりと柔らかな口調で展開する「雪の賦」。これは主には物悲しい風景と儚さを嘆く心情を表した詩であるが、その悲しさや儚さゆえの「美しさ」に言及していることが、美奈子の心をつかみ続けている詩である。
セミたちの喚声をBGMにして、美奈子はしばし「その声」に聞き入っていた。そんな彼女を包み込むように、そよ風もたおやかに戯れてくる。

幾多々々の孤児の指は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。

ふつと「その声」が途切れ、壁越しに何かが派手に割れたような音が聞こえた。美奈子は、考えるより先に音が聞こえた方へ弾かれるように駆け出していた。

外来棟と入院棟とを繋ぐ廊下の左隅には、いつも白いカーテンがかけられている。てっきりそこは物置か何かなのだと思っていた。しかし、どうもそうではなさそうだ。

幾重にもなっているカーテンをめくり、その先に細く続いている薄暗い廊下を進む。セミの声が夕立のように、美奈子に激しく降り注いでいる。足をもつれさせそうになりながら、美奈子はほのかに光の差すほうを目指す。やがて、美奈子の視界がはっきりとその「扉」を確認した。

全面的に白い漆喰で塗装が施されており、ノブの部分までが丁寧に白く装飾されている。先刻、美奈子が「赤」に魅入られた時とは比べものにならないほどの苛烈な引力に導かれ、彼女はためらうことなくそのノブに手をかけた。そして右手に力を込め重い扉を静かに押し開けた。

美奈子の訪れを待ち構えていたかのように、先ほどまで柔らかかった風が表情を変え、何かを訴えるように彼女の頬に刺さる。

「え……?」

扉の内側へと足を踏み入れた美奈子の目に飛び込んできたのは、一人の青年が黙々と、割れた鏡の破片を拾い集めている姿であった。

よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。