ゆく夏に穿つ 3
第一章 <心臓の形(二)>
彼は機械的な動きで銀のボウルの中のサクランボを一粒ずつ指でつまみ、隣に置かれた白い皿に移し替える。4秒間で一粒移すのが、だいたいの目安だ。呼吸をまったく乱すことなく、しかしどこか切迫した空気を醸し出しながら、「作業」は行われている。
ボウルに入れられた巨峰の中には、極端に粒の小さいもの、傷がついてそこから劣化しているもの、変色しかけているものが時々見つかる。そういう「不良品」を指でつまむとき、彼の目は少しだけ細められる。
ああ、君たちも、誰にも必要とされず棄てられるという意味で自分と一緒なんだな。そっか。じゃあせめて、自分が愛してあげようか。
彼は表皮がめくれた一粒の巨峰をつまんだ親指と人差し指に、眼前でためらいなく圧力を加えた。果肉が潰れたところで、音が立つことはない。「不良品」が飛散させた汁をまぶたにしたたかに浴びた彼は、それを疎ましげに反対の手の甲でぬぐう。次に、その手をゆっくりと舐め始めた。
最初こそほのかな甘酸っぱさを感じられたが、すぐにその味覚はただの皮膚のそれになる。つくづく、つまらないと思う。つまらないと思うことをつまらないと思う。キリがないものには、価値も意味もない。彼は、誰に教わるでもなくそのようにわきまえている。
「作業」の手を止め、天井を仰ぐ。真っ白に塗装されたそれは、ただそこに在るだけでじゅうぶんに冷たい。次に壁の四隅に目をやる。やはり白いそこには、以前一度だけアンリ・マティスの「マグノリアのある静物」の贋作を飾られたことがあった。色彩の配置が好みではない、何より背景の紅が気に入らないという旨を素直に伝えたら、「ごめんね」と謝ってくれたのは別にどうでもよかったが、どうせ燃えるゴミの日に捨ててしまうなら、あのオレンジ色の「了解不能のシンボル」みたいな鍋に、頭から飛び込んでおくんだったとは思う。
さながら古代宗教の儀式だ。彼は神聖な表情すら浮かべて、再び静かに巨峰を皿に移し替えはじめた。
突如、午後3時を知らせる柱時計の鳩の声によって「白い部屋」を支配していた静寂は破られてしまう。「パッポー」と三回鳴いて引っ込む、その間抜けな姿に苛立った彼は、玉のように美しい粒の巨峰を床下に落としてしまった。
「あっ」
傍観者はいない。彼は首をかしげてそのまま硬直する。ゆえに一向に落ちた巨峰を拾おうとはしない。
そうだね。そうやって堕ちて穢れたなら、君もおんなじになれるんだ。
しばらくぼーっとその新しい「仲間」を見つめていた彼は、やがて長く息を吐いた。
部屋の調度品は全て白色で統一されている。そこに奇妙さや違和感を覚えるという感覚は、すでに「彼」には存在しない。この場所は部屋というよりも「箱」という表現が相応しいかもしれなかった。
この箱の中で、彼は生きている。生かされている。
午後3時は、このクリニックでは面会の終了時間だ。今日もまた、「彼女」がここにやって来ることはなかった。
いつものことだ。わかっている。わかってはいても、彼は自分の胸に深く穿たれた空白を埋めるすべを知らない。
空白は容赦なく徐々に浸食し、彼を「正常とされる範疇」から追い出そうとする。そのえもいわれぬ恐ろしい感覚からどうにか逃れようと、彼は胸元で両手を組み、何かに祈るような格好でベッドにそっと仰向けになった。
「どこにいるの」
この問いに答える声はない。だから誰も彼を許すことはないし、そもそも「彼」を認識するものは、ここにはいない。
祈るたびに、それがまるで無意味で、しかも無味無臭な欺瞞に過ぎないのだと痛感させられる。届かない祈りなど、独善の域を出ない。そのようなことは、彼はとうに身に沁みて理解している。理解しているからこそ、空白がひたすら、彼の中に拡がっていく。
彼は、現実から脱出する手段の一つとして、不器用に口笛を吹くことがある。
……Fly Me To The Moon……
……
落ちた巨峰だけが、彼の口笛を聴いている。
落ちた巨峰だけが、彼の孤独を知っている。
すなわち、誰も彼の孤独を知らない。
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。