ゆく夏に穿つ 10
第二章 <過日の嘘(二)>
何をもって何を「不幸」だとか「悲劇」などと「誰が」決めるのだろう。ある「ものさし」で測ろうとすれば、今、美奈子の目の前に広がっている光景は「異様」とされるのかもしれない。だが、木内にシャンプーを施されているその青年は目をつむって、とても穏やかな表情を浮かべている。ゆえに、人々が勝手に彼らにあてがう「ものさし」など、いちいち意に介する必要などないのだ。
誰がどう判じたところで、間違いなく、「彼」は今「しあわせ」を感じているのだから。
しかしながら、そのようなことに思いを及ばせる余裕は、今の美奈子になかった。無防備な木内(の腰から下にはタオルが巻かれていたので『難を逃れた』と表現していいかもしれない。ここでそれが、どちらにとっての『難』であったかについては言及しない)は、突如シャワールームに侵入してきた美奈子に驚きを禁じ得なかったが、「秀一」の頭のシャンプーの手を止めることなく、一呼吸置いてから、至極まっとうな質問をした。
「どうしたの?」
すると修羅モードの美奈子は顔を真っ青にして、こう喚いた。
「先生のせいです!」
「えっ、なにが?」
無理もない言いがかりである。だが、今の美奈子にそんな正論は通用しない。
「させません」
「はい?」
「お風呂上がりにキンキンに冷えた『多摩の恵』は飲ませません」
「多摩の名産地ビールが……! じゃあ、『多満自慢』にします。あれもとても旨いから」
「日本酒もダメ」
「じゃあミュスカデルは? もちろん白!」
「ワインもNGです。ていうか、アルコール全般ダメ」
「なんでー」
「私、家に帰れなくなるかもしれないんです」
「あっ、もしかしてバス? この辺りは終バス早いからねー」
「のほほんと言わないでください」
美奈子に気圧されっぱなしの木内にシャンプーをされていた「秀一」が、うっすらと目を開けて、彼女の姿を視認すると、「あっ」と声を出した。
「おねえちゃん! ねぇ、おねえちゃんもいっしょに、はいろ!」
「ええっ⁉︎」
青ざめていた顔が一気に赤らむ美奈子、に反比例して木内は真っ青な表情を浮かべた。
「そ、それはまずいよ……」
言いかけた木内を押しのけ、「その子」はシャワールームの入口に立っていた美奈子の腕をためらいのない力で引っ張った。バランスを崩した美奈子の目に、青年のやや細めのほの白い上半身が焼きつけられる。
「きゃー!」
そこへ飛び込んできたのは、その場に駆けつけた木内のパートナーである岸本の、
「今日はアルコール禁止‼︎」
という怒声であった。
***
「なんか、スミマセン」
バンの助手席に座った美奈子は、素直に木内に頭を下げた。
「いやいや、こちらこそ悪かったね。今度美奈子ちゃんに、ソフトボールの奥深さを伝授しよう」
「いえ、結構です」
「関連書籍が診察室にもたくさん並んでるんだよ。都心まで行ったときに神保町のビブリオでゲットした貴重品ばかりでね」
「えっと、結構です」
「じゃ、シートベルト締めてねー」
人の話を聞いているのかいないのか、木内はマイペースにバンを発車させようと指先に力をこめ、キーを回転させた。
少し間を置いて、エンジンがどうにか反応を示す。大きく揺れながら走り出したバンは、なんどもおぼつかない動作だ。木内は美奈子に運転席の窓を少し開けるよう促した。
「この時間のこのあたりの風も、なかなかいいもんでしょ」
「はい」
頬にあたる空気を、美奈子は深呼吸して肺の奥まで吸い込んだ。奥多摩駅までの道のりをショートカットしようと、木内はなかなかのハンドルさばきで舗装されていない林道を進む。
「あの、あの人なんですけど」
「『あの人?』」
「あの部屋にいた男性です」
美奈子がそう言うと、木内はちょこっとわざとらしく首を傾げた。
「あの子が、どうかした?」
「えっと。どなたなんですか?」
美奈子の問いはダブルミーニング、いやそれ以上だ。すなわち、単に「あの男性の立場」だけではなく、「『誰』であるのか」、そして「存在の意味」までもを問うている。木内はハンドルを軽快に操りながら、しかしその質問には直接答えない。
「もうすぐね、僕のお気に入りのお店の前を通るよ」
「はい?」
「そこの看板は『彼』の傑作なんだ」
美奈子の視界の先に、林道が少し拓けてほのかな明かりが見えた。
「ホラ。あそこ、『りんどう』ってスナック」
「スナック……?」
バンが夕立に乱された自然の道をゆく。未整備ゆえに車体が何度も上下に揺れたが、それも不規則な一種のリズムを刻んでるようで、美奈子には心地よく感じられた。
ところが、そのスナックの建物が見えてきた頃、駆動車輪が弱々しい軋みをあげて減速しはじめた。
「あれっ」
タイヤはどうにか動こう唸りをあげ回転していたが、やがてその重低音もしなくなってしまった。トレッドが力なく、ぬかるんだ地面をかすめるだけである。
「あー、やー、マジかー」
木内はタイヤの状態を確認しようと、ドアを開けて外に出た。
「こりゃ、まいった」
タイヤが思いっきり地面にのめり込んでいる。
「大丈夫ですか?」
美奈子も降りてきて、今のありさまを見ると「あちゃー」ともらした。木内は、美奈子にそのまま車外で待つよう伝えて、彼女の座っていた助手席をぐいっと上げる。するとエンジンルームが出現した。
「あ、そこなんですね、ボンネット」
美奈子が声をかけるも、木内に返答する余裕はなかった。若干の白煙を上げて疲れ切った顔をしている(ように木内には映った)エンジンの充電警告灯が、謙虚に点滅していたのを発見してしまったからだ。
「さっきの夕立にやられたか……まいったな」
どうやらバッテリーもあがってしまったようだ。木内が茫然としていると、スナック「りんどう」のステンドグラスの嵌めこまれた扉が開き、中から四十路すぎと思しき女性が現れた。
「あら、木内ちゃん!」
「あー、メイさん。ヘルプミー」
黒のショートカットに大きなホワイトビジューのピアス、丈の短いノースリーブのチャコールグレーのワンピースにスニーカー。靴がややアンバランスなのは、お気に入りのパンプスで今外に出ればそれが汚れてしまうからだ。
「何やってんの? また来てくれたの? 嬉しいけど、今日はもう閉めようかなって思ってて。それにエミちゃんに叱られるよ」
エミとは、岸本の名前の「恵美」のことだ。このメイという女性と岸本は年齢こそ離れているものの、大の親友である。
「違う、違うって。この子を駅まで送ろうと思って」
木内が美奈子を紹介しようと振り返ると、そこに美奈子の姿はなかった。
***
「ねぇ、恵美さん」
青年――裕明は、岸本が用意したパンプキンスープに口をつけて、食後のお茶を用意する岸本の背中に声をかけた。
「なに? あ、今日はね、珍しく知覧茶が手に入ったから、入院棟のみんなにも振る舞ったの。余りもので悪いけど、きっとおいしいわよ。なかなかここじゃ手に入らない貴重品だからね」
「あのさ、僕。夢を見たんだ。不思議な夢を」
岸本は作業の手を休め、穏やかな表情で振り返った。
「それって、『いつもの』?」
「わからない……。わからないけど、でも、わかる気がして」
裕明の真剣な表情に、岸本はテーブルを挟んで彼の向かいに腰かけた。
「どんな夢か、きいてもいい?」
「さっき、いきなり部屋に入ってきた女の子がいるでしょ」
「あー。うん、いたね」
「僕があの子と、手を繋いで知らない場所の夕暮れを一緒に見届ける。そんな夢を見たんだ」
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。