ゆく夏に穿つ 7
第一章 <心臓の形(六)>
青年は美奈子のほうを一切見ることなく、ひたすら鏡の破片を集め続けている。その姿は月夜の浜辺で貝殻を集める寡黙な詩人のようだ。
美奈子が扉のそばで立ちつくしていると、青年は相変わらずうつむきがちに、こちらに話しかけてきた。
「心臓の形って、なんだか可哀想だと思いませんか」
「えっ」
突然の言葉に戸惑う美奈子。だが青年はそんな彼女の様子に構うことなく、静かに言葉を紡ぐ。
「心臓にはその構造に一切の無駄がありません。それを『合理的』と評する人も、きっといるでのしょう。でも逆に僕には、『遊び』の部分がないという意味で『追い詰められた』臓器のように感じるんです」
「えっと......」
美奈子はどうにか青年の問いに応えようと、頭をひねってみる。やはり青年はこちらを見ることなく、ぽつりと美奈子に呟いた。
「その扉、閉めてもらえますか」
「あ、ごめんなさい」
美奈子が両手を添えて扉を閉めると、それは鈍く軋む音を立てた。
振り返った美奈子は、改めて息を飲んだ。足を踏み入れた部屋の、壁紙をはじめとするありとあらゆる調度品や間接照明のランプが白で統一されており、本棚の中の本一冊一冊にまで白いブックカバーが装着されている。
「心臓はもちろん、心と同義ではありません。たとえ心が死んでも心臓が動いていれば、ヒトは生物学上は生存する」
無機質な音を立てて破片をパズルのように合わせて鏡を元通りにしようとする青年。美奈子は、その場に立っているだけなのが気まずくなり、そばに駆け寄った。
「あの、お手伝いしましょうか」
すると鏡の破片をぱちりぱちりと埋め込んでいた青年が、ようやく美奈子の顔を視認した。切れ長の瞳に深い憂いを帯びた彼は、美奈子になおも問いかける。
「形骸化した生存は、死と同義ではありませんか。だったら、心臓に無駄な部分が許されないのは、なぜでしょうか」
美奈子は返答に窮してしまう。彼の言っている意味が、いまいち解せないからだ。それでも、自分が差し出せる精一杯をきちんと伝えるべきだと判断した美奈子は、ぎこちないものの、自分なりの考えを述べた。
「それは、えっと。きっと、『生きることに無駄がない』のと同じことなんじゃないでしょうか」
それを聞いた青年は「ふーん」とだけ応答した。その態度に少しムキになってしまった美奈子は、なんとかこの青年を頷かせようと、鏡のパズルを嵌めつつ、持論を展開した。
「人の命は、有限だから価値があるんです。心臓もいつかは止まる。だからこそ尊い。私、いつも思うんです。インターネットとかってキリがないでしょう。無限に、しかも無駄に拡がってる。あちこちの匿名での発信なんて本当に劣悪だし、下卑た人間のすることだし。それで私、わかったんです。『終わりのないものには、価値も意味もない』って」
一息で畳み掛けるように美奈子が話し終えると、さすがに青年はやや驚いた表情をこちらに向けた。
「……そういう考え方も、あるんですね」
「あくまで、私はそう思ってるって、それだけです」
「面白いな」
青年は細かな破片を拾い集めながら、ぶつぶつと「無駄がない……ということは、そもそも『無駄』とは……?」などと独り言を繰り返している。美奈子は、自分の演説じみた発言が急に恥ずかしくなってきて、押し黙って破片の収集を手伝った。
目立つヒビこそ残ったものの、鏡はどうにか修復できた。青年が細心の注意を払ってそれをカラーボックスの上に載せ、美奈子に礼を述べる。
「助かりました。いつもこういう時は、ひとりで作業していたから」
「作業?」
「はい。僕にできる、数少ない贖罪のことです」
「しょくざい?」
「はい」
「食材……?」
青年がここで、初めてクスっと笑った。そのあどけない笑顔が、まっすぐ美奈子の心を打った。
青年がポン、と手を打った。
「よかったら、何か飲んでいきませんか。手伝ってくれた御礼です。といっても、牛乳か豆乳かカルピスか甘酒かラッシーしかありませんけど」
「けっこう種類豊富なんですね。っていうか、飲み物まで白いんですね」
「あ、バリウムもあります」
「それは嫌です……」
青年は、美奈子の希望に沿って、冷蔵庫からカルピスの原液を取り出した。テーブルに白いマグカップとグラスを一つずつ置いて、それぞれに注ぐ。同じ食器が二つ以上ないためだ。
「好みは?」
「濃い目で」
トロリとしたカルピスの原液を注ぐ、青年の白く細い腕に、美奈子はしばし見とれた。
ふいに、小窓からいたずらな風が入ってきて、美奈子の耳もとをふわりと揺らした。
――その時、青年の視界に、美奈子が着けていたフェイクルビーのピアスが入った。いや、入ってしまった。
カルピスの瓶はどうにか落とさずに済んだ。
しかし、彼は頭の深奥にじんとした鈍痛を覚え始める。そうなれば、「あいつ」は彼のことを、いともたやすく飲み込んでしまう。
自分が、世界に忘れられた黒点になりさがる感覚。幻影のはずなのに、その痛みは決してまぼろしではない。けれども、誰一人として彼を彼と認識しない。正しさなど、所詮は数の多さと都合の良さで決まるのだ。
(なぁ、そうだろう?)
「どうしました?」
挙動が硬直した青年を心配して、美奈子が近づく。青年は声にならないうめき声を発し、頭部を両手で押さえてその場にかがみこんでしまった。
二つの眼球が、きょろきょろとうつろに彷徨いだす。何度もまばたきを繰り返し、徐々に世界が滲んでいく。艶やかな闇に心をくらませて、たまらずに彼は強くまぶたを閉じる。
それが、青年がこの世界にしばし別れを告げる合図だった。
「大丈夫ですか」
心配した美奈子が、青年の肩に触れようとした。
しかし突然、青年の手が乱雑に美奈子の腕をつかんだ。
「きゃっ!?」
だが、腕をつかまれたこと以上に美奈子を震撼させたのは、先ほどまで穏やかだった青年の表情が鋭く豹変し――
「誰だ、お前……?」
その口調までが、激変していたことであった。
よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。