見出し画像

ゆく夏に穿つ 5

第一章 <心臓の形(四)>

「いやー、最後の一球は本当に惜しかった。絶対あれストライクゾーンだったでしょ。あの程度の当たりだったら、僕があと十歳若かったら余裕でキャッチできてた」

「ソフトボールがタイブレーカーじゃなかったら、絶対に逆転してたよね」

「まぁでも9回はきついかな。何はともあれ準優勝だよ!」

奥多摩よつばクリニックの玄関に、ゴキゲンなエンジン音を立てて一台の白いバンが帰着した。運転席から朗らかな表情で降りてきたのは、「奥多摩よつばクリニック院長」の(というよりこの場合「奥多摩クッキーフォーチュンズのエース兼監督にして4番バッター」と表現したほうがより正確だろうか)、壮年の野良精神科医、木内博その人である。

車からソフトボールの道具を運ぶため、奥多摩クッキーフォーチュンズの選手たち、すなわち臨床心理士や作業療法士などのスタッフ、そしてクリニックを利用する患者の有志たちが次々と降りてくる。

木内より少しだけ若いらしい男性患者が、グローブの入った大袋を地面に引きずりながら、やはりニコニコ笑顔を浮かべている。

「でもさ先生、準優勝でもカリタ製のセラミックのハンドミルがもらえたんだよ。だから俺たち、よくやったと思うんだ」

「そうそう。これでデイケアのコーヒータイムのクオリティは、グッと向上しますよ! 俺は珈琲豆なら中粗挽き派です」

即座に同調したのは、チーム最年少で看護助手の大柄な男子だ。彼は大ぶりの背中をのびのびとそらして、ゆったりと深呼吸をする。

「あ〜いい汗かいた~」

「シャワー入りたーい!」

めいめいに上機嫌な声がクリニックの玄関に響く。「ソフトボールが好き」という、たった一つの、しかし非常に強固な共感帯のもと構成される「奥多摩クッキーフォーチュンズ」のメンバーには、医療の提供側・享受側といった垣根はない。ただ一つ、チーム内で序列をつける価値観があるとしたら、それは「どれだけのパッションをソフトボールに傾けられるか」なのである。

よく考えなくたって、医師という職責の重大な仕事を投げ出してまで仲間とソフトボールの試合に繰り出すあたり、木内のソフトボールにかける情熱と、彼が相当な変わり者であることが垣間見えるだろう。いうまでもなく、彼が院長を務める「奥多摩よつばクリニック」が持つ空気感がどのようなものであるかは、想像に難くない。

その穏やかな雰囲気を一変させたのが、ドアを開けてすぐの待合フロアに仁王立ちして彼らを待ち構えていた岸本である。

「あ、岸本さ~ん。見てコレ、カリタ製セラミックのハンドミル!」

のん気に木内は手を振り返す。岸本は白い眼をじとりと木内に向けた。

「先生。私がメリタ派なの、知ってるでしょ」

「あれ、ハリオ派じゃなかった?」

岸本はわざと大きく咳ばらいをした。木内が脊髄反射で身を縮こめる。岸本は口調こそ穏やかではあるが、かなりの圧を孕んだ問いを木内に投げつけた。

「試合の後、どちらで打ち上げをしましたか」

「え?」

「先生は運転手だから飲んでないことはわかります。でも他のメンバーが明らかに『出来上がっている』件についてのアカウンタビリティを、こちらは追求申しあげているんです」

「なんで?」

「それはこっちのセリフよ!」

こういう時の岸本の怖さを一番よく(身に沁みて)知っているのは、他ならぬ木内だ。しかし、ソフトボール後でナチュラルハイテンションの木内は、悪びれることなくあっさりと白状した。

「『りんどう』で準優勝の美酒に酔ってました」

りんどうとは、この地域唯一のスナックで、住民たちの憩いの場となっている。店主は小泉メイという四十路過ぎの女性で、みんなからは「奥多摩のママ」と慕われている。岸本とは親友の間柄だ。

岸本は「準優勝ってことは、負けんたんですね」とわざわざ強調して、のほほんとした木内の鼻歌を制止した。

「『りんどう』で打ち上げねぇ。そうですか。あーそうですかそうですか。あそこは確かにスクリュードライバーがおいしいわよね」

「そうなんだよ~」

「アホか! 能天気にも程があるわ!」

「怒っちゃいやン。見てよコレ、なんと今回はコーヒー豆までもらったんだ」

木内が岸本に、献上品とばかりにコーヒー豆の入った小袋とハンドミルを差し出す。それをむんずとつかんだ岸本は、再度大きく咳払いをした。

「こちらはしばらくの間、没収します」

「え、そんな!」

「それも私のセリフ。こっちは本当にバタバタだったんだからね」

すっかり岸本に叱られてしょげる木内であったが、それでもなお、さも正当な理由であるかのような主張を継続する。

「『りんどう』のキールあるじゃない。絶品。あれを飲みたい誘惑に、なんと、僕は、打ち克ったんだよ」

岸本はつかつかと歩み寄ると、一呼吸も容赦もなく木内のボディへ強烈なパンチを食らわせた。

「先生。そういう無駄な抗弁なら、後程じっくり聞きますからね」

「はい……」

なおもへらへらする木内に、岸本はため息をついた。まあ、この人のこういうところは、今に始まったことではないけれど。

「あれ、他に外にいませんでした?」

「誰が?」

「美奈子ちゃん。高畑美奈子ちゃんです」

「え? なんで美奈子ちゃんが来てるの?」

「先生の完全な連絡不行き届きです、それもきちんと反省してくださいね」

「はーい」

「でも、おかしいわね。てっきり中庭の花壇でも見に行ったと思ってたんだけど」

***

白い部屋では、彼が真白く塗られた木製のロッキングチェアに身を預け、ゆっくりと揺れている。今日はそこそこの暑さがあるものの、風が抜ければ心地よいので、窓を少し開けて通り道をつくっておいた。

白いカーテンがふわりと膨らみ、そよ風が彼を撫でて軽やかに去っていく。指先で右頬に触れると、ほのかに夏の傾く香りがした。

午後三時を報せる白い鳩が柱時計から三回飛び出して、この日も彼の孤独が決定づけられる。これまで数えきれないほどこの時刻を迎えているが、彼がこの苛烈な孤独に慣れることなど決してない。

悲しいのだ、もうずっと。寂しくなるのだ、飽きもせず。雨降りならば、ふくよかな雲が自分の傷跡を包み込んでくれる。しかし、今夏の激しい陽光は人間に容赦なく明るさを強制してくるようで、非常に居心地が悪い。

輝きばかりが礼賛されるこの世界で、自分のような黒点が一つ紛れたところで、最初からなかったことにされるだけなのだ。今までもそうだったし、これからも、きっと、ずっとそうなのだ。

果てのない空白と底知れぬ罪悪感に苛まれるとき、決まって彼は頭部の深奥に鈍痛を覚える。他ならない自分が、ただの黒点になりさがる「幻影」に取り憑かれる。彼にとって、それは恐ろしいことというよりも、虚しさが助長されるだけの現象だった。

鳩の引っ込んだ壁掛け時計の、音もなく回り続ける秒針を目で追う。それが一周するのを見つめ終えると、彼はゆっくりとロッキングチェアから立ち上がった。

外では数多の蝉が、我が物顔で大合唱を続けている。七日間限りこの世界へ生存することを赦された彼らの声は、間違いなく命を削りながら放つ悲鳴だ。

白い部屋の片隅のテーブルの上には、白い布に覆われた箱が置かれている。その布を除けると、そこには「箱庭療法」で使用されるそれが置かれていた。箱庭療法とは、セラピストが見守るなか、クライエントが砂の入った箱の中にミニチュア玩具を配置し、また砂自体を使って自由に「何か」を表現し、遊ぶことを通して行われる心理療法のひとつだ。

彼の作った箱庭は、中央部分の砂だけがやけにうずたかくなっており、その周囲をびっしりと囲うように木々が配置されている。その外郭は海ではなく、真っ黒な空間となっており、そこに家のミニチュアがいくつも置かれている。

箱庭は、その左上が「家庭や大事なもの」、右上が「将来と希望」、左下が「無意識」、右下が「現在の状況」を表すとされている。どこを切り取っても同じように見える彼の創造したこの世界は、一体何を表しているのだろう。

【幻 影】(中原中也)私の頭の中には、いつの頃からか、薄命そうなピエロがひとり棲んでいて、それは、紗の服なんかを着込んで、そして、月光を浴びているのでした。 

ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、ついぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思いをさせるばっかりでした。

手真似につれては、唇も動かしているのでしたが、
古い影絵でも見ているよう――
音はちっともしないのですし、
何を云ってるのかは 分りませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしそうなのでした。

彼はゆっくりと「箱庭」に手を伸ばした。砂の嵩が最も高い部分に一切の躊躇いなく人差し指と中指を突っ込む。すると崩れた砂山の中から数体の人形が埋もれているのが視界に入った。

彼はそのうちの一体を手に取ると、その暗い色彩を宿した瞳を「世界」に絶対に気づかれないよう、ほんの少しだけ細めた。

よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。