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世界遺産の探索道*崎津編 Ⅱ

月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。

崎津旅の際に立ち寄れる処々をご紹介します。テーマがキリシタンではない場所も一部あります。

あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。

ヨハネによる福音書16章33節


三角西港

天草方面に行く時必ず通る通過点。こちらは2015年世界文化遺産に登録された。明治維新で大活躍した貿易港湾の街。
九州で豊かに採れた石炭はこの地から輸出された。
旧三角海運倉庫。今はcafe☕️です
三角西港が最も繁栄した時には、埠頭に面して数多くの倉庫が並んでいた。この倉庫はその一つ1887年に建てられた。土蔵造りの頑丈な造りは当時の繁栄を忍ばせる貴重な建物(国登録有形文化財)
コロニアル様式のホテル「浦島屋」の復元で、今は資料館となっている。
中はこんな感じ。↓↓↓
2階は広間になってる。
何度か行ったので、写真を撮る時間帯で風景変わります。私は夕焼けがすき⭐️


天草四郎ミュージアム

天草四郎ミュージアム

このミュージアムは、上天草大矢野にある。
天草四郎の生まれ故郷はいくつか説がある。このミュージアムがある所
上天草大矢野?
熊本の宇土市?
長崎市?
はっきりわかっていない。
でも彼がまだ「益田四郎時貞」という少年だった頃、上の3箇所の全てで過ごしていた時期があったのだという。

お父さんの益田甚兵衛(ますだじんのひょうえ)は、この大矢野で生まれた。宇土の小西行長の家臣で秘書役をしている。
関ヶ原の戦いで、主君の小西行長を失い、甚兵衛は宇土で、大矢野で、長崎で農民として過ごした。
甚兵衛は、後に天草島原の乱の指導者の1人となった。
それはキリシタン弾圧をする幕府側への反抗でもあったが、当時島原半島を治めた松倉重政・勝家親子の横暴に対する農民たちの意志表示だった。
石高に見合わないような立派な島原城築城のために、農民たちに過大な年貢、重税を課した。
1634年からの3年間、島原は天候が悪く、凶作が続いたことにより米の収穫がなかった。
そのため、島原大名の松倉勝家は、米や麦だけでなく煙草や茄子の実まで年貢として厳しく取り立てたとされる。
さらに人頭税や住宅税など様々な税を設定し厳しく取り立てたてたことが、オランダ商館長の日記など多くの記録に残っている。

生きて地獄なら死んでパライソに。。。



年貢を納められない者が出てくると、松倉勝家は非情な見せしめとして拷問を行なう。
その手法は筆舌に尽くしがたく、村の責任者である庄屋から、女子供を人質に取り藁蓑(わらみの)を着せて火を点け、もがきくるしむ姿を見ながら、「蓑踊り」(みのおどり)と呼んでいたと記録が残っている。
また、キリシタンへの迫害も徐々に強まり、改宗を拒んだキリシタンにも凄惨な拷問や処刑を行なうようになる。
1625年に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されたため、弾圧はエスカレートし、顔に「吉利支丹」(きりしたん)の文字を焼きごてで焼きつける、指を切り落とす、熱湯責めにするなど、痛ましい拷問の記録が残っている。
そんな中で、農民たちは島原の乱へと向かっていったのだった。
若くはあったが、天草四郎にはカリスマがあったようで、次第に民たちに「旗印」として担ぎ上げられてゆく。
この天草の海の向こう側、島原半島の農民と連絡をとり、時に中間地点の談合島(湯島)で談合し合い、哀しき革命へと向かっていく。
善戦をしたものの、海の向こう側の原城(古戦場)
での籠城戦に持ち込まれ、やがて敗れていく。

黄丸🟡三角西港
赤丸🔴天草四郎ミュージアム
橙丸🟠島原原城(古戦場)
緑丸🟢湯島(談合島)

湯島談合島は天草勢と島原勢の中間地点で、集合し作戦を練ることができた。

ミュージアム前の天草四郎像
説明板↑↑↑読めます
ご関心がありましたら拡大してね
「みのおどり」こちらは島原の
有馬キリシタン記念館の展示より
天草四郎ミュージアム リーフレット
撮影禁止でしたがこちらの写真で展示物の様子がわかるかな?と思います


天草キリシタン館

三角西港→
天草四郎ミュージアム(大矢野島)→
そしてこれから
天草市立天草キリシタン館へ行きます⭐️
ここは、殉教公園として整備された本渡城跡の丘陵を登った先に建っているよ。

ではでは🔵天草キリシタン館へと向かいます👣

黄丸🟡三角西港 
赤丸🔴天草四郎ミュージアム
橙丸🟠島原原城(古戦場)
緑丸🟢湯島(談合島)
青丸🔵天草キリシタン館
天草キリシタン館
屋外エスカレーターです。
丘を登っていくとまずこちらの
キリシタン墓地が見えてくる
説明板
アルメイダ神父記念碑
アルメイダは1525年ポルトガルのリスボンに生まれ、21才で医師の資格を取得した。東洋貿易商人として活躍した。
1555年平戸に渡った際にイエズス会に入会、私財を投じて豊後府内(大分)に孤児院を建てた。また、総合病院を開設し臨床的に外科医を養成するなど、わが国に最初の西洋医学を伝えた。
1561年以降は宣教活動に専念し
1566年(永禄九)当時天草下島北部を治めていた志岐氏の招きで来島。島内各地
で宣教に従事し、1583年天草で帰天しその生涯を終えた。この記念碑は、アルメイダによって花開いた天草のキリシタン
文化を記念し建てられたものである。
天草市文化課
説明板
天草最初の殉教者 アダム荒川
アダム荒川は、1552年(天文21)頃、
長崎県島原半島有馬の生まれと言われ、
1590年代には志岐の教会に伝導士又は看坊として勤めていた。
1614年(慶長19)キリシタン禁教令により、志岐教会のガルシア・ガルセス神父が国外に追放されるとき、アダムに志岐の教会の世話を頼み天草を去った。
アダムは信者の世話に力をそそぎ、幼児に洗礼を授けたり、病人を見舞ったり、人々を励ましていた。
迫害が厳しくなり、アダムは役人に捕らえられキリスト仰の棄教を命じられる。
しかし、過酷な拷問を受けながらも信仰を守り続け、同年志岐の刑場で処刑された。
天草市文化課


天草キリシタン館常設展示図録より


説明板
天草四郎陣中旗寄贈者
松本高光翁頌徳碑
国家定重要文化財天草四郎陣中旗は、天草島原の乱において宗徒軍のシンボルとされたもので、指物には聖体秘蹟讚仰図が描かれ、図中に戦の痕跡を残す。我が国キリシタン史上、美術史上極めて重要な歴史的遺産であり、世界三大聖旗の一つと言われ国際的にも高く評価される。太宰府市の松本高光翁は所有するこの陣中旗を永年に亘り寄託し当天草キリシタン館での公開に寄与されたが、平成7年6月「歴史的文化遺産は私有すべきでない乱の霊を慰め続けている本渡こそ旗の安住の地」と本渡市に寄贈された。
天草・本渡郡市民は松本翁の篤志に感謝し、旗の下に散華した人々の冥福を祈り、史実を後世に伝えるため、ここに天草切支丹館開館30周年を記念して。彰徳碑を建立する。風薫る島に安らぐ陣中旗

平成3年8月1日天草切支時館振興会


天草キリシタン館に所蔵される天草四郎陣中旗。畳半分ほどの大きな絹製の旗。中央に聖杯その上に十字架、両側に礼拝する天使が描かれている。

旗の表面の赤い斑点状のものは血痕で、所々に刀や槍などの裂傷も見られる。原城総攻撃が行われた1638年2月28日のものと思われる。
この日、佐賀鍋島藩の鍋島大膳が一揆勢から旗を奪い取ったと記録に残る。


2024.11/1〜7日のみ実物の陣中旗が展示されました。通常はレプリカ。
私は10月に行ったので実物見れず残念。


天草四郎は天を指さしている
街と海をみおろす。夜景もきっと美しい
説明板
本渡城の歴史
本渡(戸)城跡は戦国時代の有力国人「天草五人衆の中で最も勢力を有していた天部氏の拠点城郭です。城内で採集された陶磁器から、14世紀頃には城としての機能を果たしていたと考えられます。本渡城は、天正18年(1590年)城主天草伊豆種元と小西行長・加藤清正らが激しい戦いを繰り広げたことで知られています。天草種元はドン=アンドレアというキリシタンであり、この戦いでは、城内に宣教師と付近のキリシタンたちが立て籠もりました。
攻め手側の小西行長もまた敬虔なキリシタンであり、同胞への情から城攻めに消極的でしたが、一方の加藤清正は教しく城を攻めました。種元勢は籠城し頑強に抵抗しました。
その抵抗ぶりは宣教師ルイス・フロイスによる「日本史』に記録され、特に婦人たちの激烈な戦いが以下のように語られています。
[[300人の婦人は・・・(中略)..・髪を切り、衣が邪魔にならないように裾をあげ、鎧や武器で身を固めた。大勢が兜をかぶり、コンタツのロザリオや聖遺物を首に掛けた。こぞってイエスのみ名を唱えながら、勇気をふるい起こし、最大の激戦が展開している戦場を目指してまっしぐらに突入した。・・・(中略)・・・こうして彼女たち全員が刀で殺され、戦場に身をさらした。]]
この悲劇の後、ついに種元は切腹、本渡城は落城しました。籠城側は1300名の犠牲を出しましたが、攻め手の加藤勢はそれを超える2000名近い兵士が落命したとフロイスは伝えています。
↓↓↓もよければご覧ください
本渡(戸)城跡の構造についての説明
島原・天草一揆で亡くなった 人々を祀る慰霊碑
天草諸島と島原半島でのキリスト教徒に対する迫害に加え、飢饉や、領主の悪政によって多くの人が亡くなっていく。耐えかねた天草と島原の領民は、湯島で談合(話し合い)を重ね、2万数千人に及ぶ一揆軍を結成し、天草四郎をリーダーに、廃城となっていた「原城」や、「本渡城」「富岡城」などで幕府軍と戦う。
のちに「島原・天草一揆」と呼ばれることとなったこの戦いで、犠牲となった人々を慰霊するため「殉教戦千人塚」
が作られ、毎年10月の「天草殉教祭」では祈りが献げられる。


青丸🔵本渡城
橙丸🟠 原城
緑丸🟢談合島
赤丸🔴富岡城
これらが天草島原の乱の舞台となる
島原天草の乱の、もう一つの激戦地が
ここ熊本天草本渡にあります。
説明板 祗園橋
この石橋は、天保3年(1832年)町山口
村庄屋大谷健助が発起し架設したもので、祇園神社の前にあることから、祇園橋と呼ばれています。石造桁橋では日本最大級で、長さ28.6m幅3.3mあり、45脚の石柱により支えられています。
下浦村(現下浦町)石屋の辰右衛門により建造され、地元のむ岩が使用されています。
この付近は、寛永14年(1637年)11月、天草・島原の乱で、天草四郎の率いる一揆勢と、富岡城番代三宅藤兵衛の唐津軍とが激突した場所です。両軍の戦死者により11の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられています。
今は渡ることはできない
天草キリシタン館リーフレット
愛犬も興味シンシン。
陣中旗カッコいいワン🐶
天草キリシタンの歴史年表


そしてこちらは↓↓↓おまけで〜す

天草の方々です。というのはウソ。
道の駅宮地岳かかしの里で癒されてください☺️

平成24年3月に廃校となった宮地岳小学校を再利用している道の駅です。
西日本では初!全国でも3番目の珍しい道の駅です。
600のカカシがあちこちに。。。皆さんの郷土愛溢れる道の駅。
校舎の中はとても賑わいお土産店、フードコート、展示ありです。なんだか学生時代の文化祭を思い出して楽しくなりますよ。




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