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細川ガラシャの物語


月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。


「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
ガラシャの辞世の句。
ガラシャさん人生にふさわしい言葉だな☺️☺️☺️





熊本市内に、立田自然公園と北岡自然公園という緑豊かな公園がある。どちらも細川家にゆかりがある。

立田自然公園の泰勝寺は、忠興&ガラシャ夫人そして忠興の両親、初代細川家の藤孝夫妻の菩提寺。


北岡自然公園の泉福寺は、3代目忠利夫妻、4代目光尚夫妻の菩提寺なのだそう。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

私は初めて立田山公園を訪ねたとき、みごとなガラシャ夫人の霊廟があったので、てっきりこの地で暮らしたのかと思ってしまった。でも実際にはガラシャは熊本にはきていない。1600年関ヶ原の戦いの時に亡くなっているからだ。細川家が九州にやって来たのはその後の事だから。

私はお寺のことはあまり良くわからないけれど、ここの霊廟はなかなかなものと評判だ。ガラシャさんはキリシタンなので、天国で苦笑いしているかも、笑。
以下にガラシャの物語を書いてみたい。

1563年、明智光秀と煕子の間に産まれた。側室をとることもなく、愛情に包まれた家庭だった。玉子は利発で美しく、気の強い娘だった。



1578年15歳 織田信長の命令で細川家の忠興に嫁いだ。政略結婚ではあったが、忠興に愛され、お舅さんの細川藤孝も、元々玉子の父の光秀と心の通う間柄だったし、優しい人だった。

勝龍寺城での暮らしがはじまり、
1年後に女の子(於長)が、2年後にには男の子(忠隆)が生まれた。
一姫二太郎で、幸せな日々だったと思う。その後、丹後の八幡山城、宮津城と引越すが。

1582年19歳の時 本能寺の変が起き、幸せは一変してしまう。父の光秀が三日で討たれ、実家の明智一家は「謀反人一族」として誅殺される。
玉子も同じ罪を負う筈だった。
けれど忠興は玉子を2年間、深い里山、丹後国の味土野に幽閉し匿う。

玉子は全てを喪失する悲しみを負った。父母、夫、家族、子供達。。。
この時期にこの世の幸せの危うさ、絶望感、虚しさを知らされただろうと思う。でも彼女を支えたのは、結婚する時に与えられた小侍従や、細川家の親戚の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)たち侍女だった。マリアはキリシタンで、玉子を心から思いその魂が癒され、救われる事を祈っていた。
またこの時期に次男の興秋を出産している。

1584年21歳のとき、信長の覇権は秀吉にうつる。秀吉の執り成しで、細川家の大坂屋敷に戻る。けれども外出は許されず、相変わらず幽閉生活だった。

玉子はそれまでお舅さん藤孝とともに禅宗を信仰していた。けれども忠興の友人、高山右近からキリスト教の話を聴き次第に心魅かれていった。

1586年23歳 3男忠利を出産するがとても病弱で心配がたえなかった。
そんな中、興秋までもが大きな病気を患ってしまったようだ。
強い跡取りを望んだ夫の忠興は、弱い子供達を疎んじたという。

1587年24歳 夫の忠興が九州征伐で留守の時、侍女数人に囲まれて身を隠し教会に行く。教会はそのとき復活祭イースターで、美しく飾られていた。教会では修道士コスメ高井と熱心な宗教問答し、色々な質問をした。後に、コスメ修道士は「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べた。
玉子はその場で洗礼を希望した。けれど教会は彼女が誰なのかも分からず、高い身分の者と思われその時は見合わせた。
細川の家の人々が玉子の外出に気づき連れ帰る。



その後は再び外出できなくなる。
けれども玉子は洗礼は受けれずとも、侍女を通じて教会とのやりとりを続け、教会からの書物を読み信仰が育まれていく。そして侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせた。

1587年24歳 秀吉がバテレン追放令だす。玉子は宣教師たちがいなくなる前にと、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自宅で清原マリアから洗礼を受ける。

細川ガラシャとしての新しい人生が始まる。
忠興はそれを知り激怒、棄教させようとしたが、玉子が頑としてきかなかったので黙認することになった。

忠興はその後「5人の側室を持つ」と言いガラシャに辛くあたるようになる。またが洗礼を受けた乳母の鼻を削ぎ、両耳を切りとって屋敷から追い出すなどしている。

ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白した。キリスト教(カトリック教会)では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。

1600年27歳 忠興は、徳川家康に従い出陣する際、家臣に命じた。「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」
この時、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとする。ガラシャが拒絶したため、三成は武装し屋敷を囲ませた。


家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。

冒頭の辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
それはこの時に詠まれた。

死の数時間後、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。

1601年 忠興はガラシャの死を悲しみ、オルガンティノ神父に教会葬を依頼し葬儀に参列し、遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬。他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされる所がある。

忠興は、この時のオルガンティノ神父の計らいに心から感謝し、毎年ガラシャの命日に教会での追悼ミサをお願いするほどに心を開くようになっていた。
九州小倉に転封してから、中津にきていたグレゴリオ・デ・セスペデス神父に好意を示し、援助すらするほどの理解をもつように変えられていた。
1609年までは。。。

1610年、キリシタン迫害に転ずる。


ガラシャの死が果たして殉教だったのかといえば違うのでしょう。ただ、ガラシャが殉教の覚悟をイエズス会神父に告白していた。

以下に紹介するガラシャの書簡は1588年にガラシャが、セスペデス神父に宛てた手紙だ。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、彼の日本における最後の報告書「二十六聖人殉教記」に収録している。
この手紙の冒頭で、ガラシャは自らの信仰について次のように記している。

「武田が昨日朝、当地に参り、伴天連様、いるまん様方御動静を拝聞いたしました。喜びに堪えないことでございますが、とりわけ、皆様全員が日本を御退却なさるものではないことを承り、私にとっても本当に喜びに堪えません。
これによって私も心に力を得て、いずれは当地方にもお戻りになり、御面接を賜ることもあろうかと希望を新たにしました。私のことについては、伴天連様が御存知のごとく、切支丹となりましたのは人に説得されての事ではなく、ただ全能の天主の恩寵により、私自らがそれを見出してのことであります。
たとえ、天が地に落ち、草木が枯れはてても、私が天主から得た信仰は決して変わることはありません。最も悲しみに堪えないことは、伴天連様への迫害により私達が受けた不幸であります。けれどこれによって、良き切支丹としての信仰が、説明されるものと思われます。
伴天連様方御退去の後、私への苦難は絶えたことがありませんが、何事も天主の御助けにより御加護を受けておる次第でございます。」

ガラシャは、また侍女達の信仰を励まし、手紙の中でキリシタンとして生きるためのゆるぎない覚悟を次のように記した。

「マリアと私は、いかなる迫害が、越中殿あるいは関白殿のいずれより来たとしても既に覚悟を決め、その機に臨んで天主への愛のために、いくらかの苦難を受けることができることを喜んでいる次第です。」






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