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細川興秋の物語


月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。

熊本にゆかりの深い細川家。日本の名門一族。けれどその中には、光のあたる人もいるし、眩い光の影に追いやられてしまった人もいたんだなぁ〜っと感じます。明暗を分けたものってんだったんだろう🤔🤔🤔




今回の主人公は細川興秋です。
興秋は、熊本城主細川忠利の兄、もちろん細川ガラシャの子、本当なら細川忠興の跡取りとしては忠利よりも上位。けれども1614年、若くして切腹命令で果てたといわれている。
しかし興秋の死の時期については諸説があり、郷土史家たちが現在進行形で紐とき、すでに明らかになってる証拠もあるという(古文書や旧家にお蔵入りしてる系図など)。
キリシタンの存在が長くタブーだった日本においては歴史はまだ確定してないのだ。でもそこに醍醐味を感じてしまう(*'▽'*)

1583年、細川興秋は、母細川ガラシャ(当時は細川玉子)が幽閉されていた時に産まれたという。

1578年、玉子は15歳にして細川忠興に嫁いだ。美しい花嫁だったことだろう。
翌年には長女が、2年後には長男忠隆が産まれた。

1582年、玉子が19歳の時事件は起きた。実の父明智光秀が、織田信長に謀反を起こした。本能寺の変だ。光秀は三日で打たれ、明智一族は「謀反人の一族」として刑に服し運命を共にした。


けれども玉子だけがその命が助けられたのだ。忠興が玉子と離縁することはせず、1584年までの2年間彼女を京都丹後国の深い山奥に匿ったのだ。
匿ったとはいえ、そこでの幽閉生活は玉子にとって不安と孤独との戦いだったろう。

1583年、この幽閉生活の中で産まれたのが、興秋だった。不遇な玉子にとって赤ちゃんの興秋は慰めの存在となったと思う。山里での幽閉生活にはキリシタンの清原マリア(公家の清原枝賢の娘)などの侍女達も共にいた。


1584年、母子は大阪城下の忠興の元へと戻ることができた。大坂玉造の細川屋敷であった。信長に代わって覇権を握った秀吉が、ガラシャ達が大阪城下へ戻ることを勧めてくれたのだという。


1587年、玉子は洗礼をうけ、細川ガラシャとしての新しい人生を歩きはじめる。同じ年のこと、興秋(4歳)は大病を患う。ガラシャの願いにより興秋も洗礼を授けられ、洗礼名「ジョアン」と名付けられた。洗礼者聖ヨハネに因む名前である。興秋が洗礼を授けられた時、兄の忠隆(7歳)も洗礼を授けられている。

1594年、興秋が11歳の時、叔父細川興元(忠興の弟)の養子になった。興元にはなかなか子ができなかったのだそうだ。
後から興元は、ガラシャと興秋の洗礼を知って、自分も関心を抱き、キリスト教の教えを学んでいったという。ディエゴ加賀山隼人や高山右近の勧めもあり、興元は洗礼を受けてキリシタンとなった。



1600年、興秋17歳の時、関ヶ原の戦いは起きた。実父忠興や兄忠隆と一緒に参戦し活躍したようだ。

同1600年、実父忠興はその戦功によって豊前国・豊後国に移封された。栄転だった。
細川忠興は中津城の大修築を開始した。しかしその2年後1602年に
小倉城を築城し、こちらを居城とした。

1601年、興秋の養父興元が、興秋の実父忠興と不仲になり、黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)の助けを得て出奔する。

1602年、中津城の城主を、興元の後をうけて興秋が務める。

1605年、もともと弟の忠利は徳川家のいる江戸に人質となっていたが、徳川に気に入られ細川の嫡男に使命された。そしてその身代わり人質として、興秋は江戸に向かうことになった。でも途中で出奔してしまったのだ。

その後、京都にいる祖父幽斎(細川藤孝)と共に暮らす。幽斎の元にはキリシタン養父の興元(1601年出奔)や、長兄の忠隆(廃嫡)たちもいた。


1605〜1615年の10年間を興秋は京都で暮らした。
1610年 忠興の命令により氏家宗入の娘と結婚する。

1611年 8月6日、愛娘鍋が誕生した。しかし興秋の幸せな家庭生活は長くは続かなかった。

1614年、大坂の陣で豊臣に味方する。豊臣が負けたので、徳川についた実父忠興は、息子興秋に切腹を命じる。徳川家康から赦免の話があったが、忠興がそれを断ったという説もある。こうして興秋は細川家から断たれたのだった。
ところが、、、
本当に興秋はこの時に切腹したのか?本当に命を落としたのだろうか?
実はいくつかの説があり、またその証拠と言えるものも出てきている。

だから、そのもう一つの物語をいつかは投稿してみたい。





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