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小倉キリシタンの物語

月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。


小倉はとても魅力的な街、夫が昔暮らしていたし、今は娘が住んでいる。リバーウォークモールに入って時間がなくなり、小倉城に入れなかった思い出が、、、なんてもったいない事したんだ!近いうちに必ず行きたい私です。



今回の物語の主人公はディエゴ加賀山隼人。

前回投稿した熊本殉教一家、小笠原みやのお父さんである。

物語の始まりは1600年、関ヶ原の戦いで功績をあげた細川忠興が、大阪から九州へと移封してからのこと。

けれども少しさかのぼってみると。。。

1566年、加賀山隼人は高山右近の領地、高槻で生まれた。10歳の時ポルトガル宣教師のルイス・フロイスから洗礼を受けた。

安土セミナリヨで学びイエズス会の少年同宿( 同じ修道院で修行する僧)となった。


やがて高山右近に仕えるけれど、右近が伴天連追放令により領土を秀吉に返上したため、蒲生氏郷に、その後は細川忠興に仕えた。

1600年、細川忠興の移封と共に北九州の小倉と中津へと移った。その人柄と力が認められて、大分中津の郡奉行に、さらに家老になっていく。

多くの領民を愛し、愛された指導者、そしてキリストの愛を説いた。

セスペデス神父(1599年、細川の小倉移封の前年に、元領主黒田官兵衛が中津に招聘した)のもとで小倉教会を支え、キリシタンとして活躍した。


1608年 天正遣欧少年使節の伊東マンショが小倉に赴任しセスペデス神父を助ける。


加賀山隼人も共に働き、この頃はまだ忠興・忠利も教会に心を寄せ一番麗しい時期だったのかもしれない。そして二千人の受洗者があったという。

同1608年 天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンも伊東マンショを訪ね小倉に来る。
加賀山隼人や小笠原玄也達と親しくなり、その後の人生を共に歩む同胞になった。(後年、小笠原玄也一家の苦境の日々に、その信仰を支えたのは中浦ジュリアン神父だった)

1611年、セスペデス神父が召天すると、忠興は禁教に踏み切り、教会は破壊され門を閉じた。また家臣の加賀山隼人に再三の棄教を迫る。

けれども信念を通した加賀山隼人は、職を解かれ軟禁生活と貧困生活に入る。特にこの時の隼人の徳と祈りの精神が人びとに感化を与えたのだそうだ。

1619年 徳川秀忠により京都の大殉教が起こる。それを目の当たりにした細川忠興は、将軍の圧力を恐れ、彼の処刑を命じた。

1619年10月15日、小倉市外で干上がり(現在の小倉北区日明)で斬首の刑に処された。このとき54歳だった。

最後の時まで冷静な態度、祈りの精神を守り通した。

同じ時、同じ理由でディエゴ加賀山隼人のいとこバルタザル加賀山半左衛門とその息子ディエゴも豊後の
日出で殉教を遂げた。
次にはこの父と幼い息子のことを書きたいと思う。


<cocoのひとりごと>
歴史は紐といていくと興味が尽きなくなくなってしまう。点と点がつながって線になった時。
その土地をこの足で歩いたとき、線が面になる。
感動!



⭐️小倉カトリック教会 加賀山隼人顕彰碑
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小舟で処刑場の下に着き  改宗を求める
お役人に自分の信仰を話す隼人の姿と、隼人の詠んだ一首が彫られていると。   

"寄海戀(うみにおもいをよせる)
千尋より深きおもひの海はあれど
もらしそむべき言の葉ぞなき"

⭐️小倉城ホームページ「小倉城ものがたり」
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小倉は何回も行ったのに お城に入った事がなかった!今度はいるぞ!

⭐️女子パウロ会 ホームページ
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加賀山隼人顕彰碑のたつ
小倉カトリック教会です⛪️



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