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世界遺産の探索道 Ⅰ *天草崎津

月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。


キリシタン世界遺産の構成資産は12ある。
その多くが長崎県にある。
けれどもたった一つが、実は熊本県にある。
それが崎津集落。


わたしたちの国籍は天にある。そこから、救い主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

ピリピ人への手紙3章20節

私の友人のご主人の故郷は崎津。
そして彼は、キリシタンの末裔と伺っている。
とても熱心なカトリック教徒。
とても睦まじい素敵なご夫妻。

私の尊敬する方々だ。
そんな思い入れのある地、天草を探索した。


崎津集落


まずは崎津集落の玄関口、「道の駅崎津」におじゃまします。趣きありで建物も新しく綺麗です。地元の方?が描いた絵はがきを購入しました。
「崎津集落」天草市河浦町崎津
「大江教会」天草市天草町大江
「祇園橋」天草市本渡古戦場
山と海に挟まれたわずかな平地に家屋が密集した土地「崎津」。工夫を凝らしながら漁を営んだ工夫が書いてある。また、「根引の子部屋」でミサが行われ、修道院と孤児院をかねた施設だったという事なども書かれている。
説明板

天草の崎津集落の中には、「水方」と呼ばれる信仰指導者の屋敷跡や、潜伏キリシタンが発覚する「天草崩れ」の舞台となった崎津諏訪神社、絵踏みという日本独自のキリシタン弾圧が行われた、崎津吉田庄屋役宅跡(現在の崎津教会所在地)など弾圧・潜伏時代の痕跡が残されています。
説明板
崎津の潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や神社氏子となりながら、ひそかに信仰を続け、アワビやタイラギの貝殻などの海産物の模様を信仰の対象と見立てながら、信仰を守り続けたといいます。
1805(文化 2)年に潜伏キリシタンが発覚する天草崩れでは、崎津村民の約70%が潜伏キリシタンと発覚しました。
取り調べを受けた信者は、どこに参詣する際も自分達は「あんめんりゆす=アーメンデウス」と唱えたと記録されている。
左は旧崎津天主堂
右は現在の崎津天主堂
港の向こうに崎津教会がみえます
キリシタン関連世界遺産のモニュメント
崎津教会入口バス停ですね
これから崎津教会とみなと屋に
向かいます
説明板

天草市崎津・今富の文化
ハルブ神父の墓
The Grave of Father Halbout
ハルブ神父(オーギュスタン・ピエール・アドルフ・アルブー)は、パリ外国宣教会司祭として来日し、長崎の教会を歴任。崎津教会に赴任し、1934年キリシタン取締りの「絵踏み」が行われた庄屋宅の跡に聖堂を建堂しました。来日後、一度も故国に帰ることなく、1945年1月14日崎津で帰天、80歳の生涯を終えました。
写真には写ってないですが、結構人通りありました。地域の人々が観光客をもてなす風景が見られ、地元を愛しているのが感じられました。近所のネコさんに「この子の名前は天草シロー君なの」と紹介してくれたお婆さんがいました😄


カトリック崎津教会

ステンドグラスが可愛い素敵な礼拝堂。中には入れませんでしたが、畳敷の珍しい建物です。かつて絵踏がなされた庄屋さん宅を、あえて買取り、聖堂を建堂したといいます。
吉田庄屋役宅跡
この崎津教会⛪️は、昔の崎津集落、庄屋宅跡地に建てた。禁教期に聖画像を踏ませてキリシタンかどうかを調べる「絵踏」が行なわれていました。
解禁後、フランス人のハルブ神父は、1934年に新たな教会堂(現在の崎津教会)を建てる際、強い希望によりこの地を選び、かつての絵踏の場所に祭壇を置いたと伝えられています。

崎津教会
崎津教会は、1934年にハルブ神父と住民の寄附によって建てられた教会堂です。初代崎津教会堂の老朽化により現在の場所に新築されました。コンクリート造りの計画で建築されましたが、資金不足により途中で木造に切り替えられたため、灰色のコンクリート部分と白色の木造部分が混在する特殊な教会堂となりました。教会の設計は、多くの教会建築に携わった上五島出身の鉄川与助によるもので、外観にはゴシック様式の特徴がみられ、堂内には、建設当初から日本の生活様式を取り入れて畳が敷かれており、信徒たちは床に座ってミサに参加していました。
説明板
オーグスチンハルブ神父の生涯
1864.11.23フランス・セエズに生まる1882.9.22司祭に叙階
1889.9.13来日する
1927崎津教会に赴任する
1938当教会を建堂する
1945.1.15  56年間の宣教生活を終え
当地にて帰天する


みなと屋

みなと屋が見えてきた
崎津資料館みなと屋です

昭和初期、崎津は海産物や隣町の木材や木炭などの交易で栄え、街なかに木賃宿や旅館が建ちならび、日中から三味線の音が響き繁栄した街だった。
崎津資料館みなと屋は、昭和11年に建てられた旅館「みなと屋」を、資料館として改修。崎津の歴史や独特のキリスト教信仰について紹介している。旅館の面影が残る素敵な資料館です。
アルメイダによる布教で、村人の多くが
信仰をもつようになったこと、
河内浦のコレジオのことなどが書かれている。

崎津集落の信者は明治となってから
カトリック教会へ帰ってきた
「潜伏キリシタン」
今富集落の信者は先祖達の信仰を継承
し、カトリック教会へ帰ることの無かった「カクレキリシタン」
2階の窓から礼拝堂がみえます。
崎津ならではの風景ですね。


道の駅とみなと屋のスタンプ!!
みなと屋を出て通りをさらに行くと海です。昔ここに「カケ」と呼ぶ仕事場が並んでいたのでしょうか。

「山と海が接する狭い土地に家屋が密集していたため、効率よく生活するための工夫がされた。それが「カケ」という海上構造物。その上で漁のための作業をした。豊富な海産物は行商により、大江や高浜、苓北まで売買が行われた。
陸・海上の交通の要衝となり、昭和初期には、海産物や隣村の農産物、木材、木炭を長崎や五島、福岡へ積み出すための交易拠点もなった。」
山の斜面にある大きな墓。500基ほどの墓が建てられている。天草崩れで取り調べを受けた「辰五郎」「ゆく」「善吉」
「はつ」という潜伏信者の墓、十字架が彫られた墓や自然石を組み合わせて作った
集石がある。キリスト教・神道・仏教墓が混在するという。


みなと屋のリーフレット
当時の様子が伝わります

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