天草キリシタン父子鎮尚•久種の物語
天草は海あり、山あり、緑ありの美しいところ。
熊本県だけど、社会の教科書で習う「天草四郎」や「天草島原の乱」の印象があまりに強くて、なんとなく長崎県?私はそう誤解してた💦💦💦
熊本市内から島先端の牛深までは130キロもある🙄
でも絶景をひた走る130キロ🚗
天草は大矢野島•上島•下島の3島を中心にした大小120あまりの島々の総称。
おススメは大矢野島と上島を隔てる海と大小様々な島の眺めと天草五橋を渡っていくドライブ🚙
有名な天草四郎は熊本出身で、乱が起きたのは長崎県(島原半島)だ。
↓↓↓ この円の茶色部分が天草。
上天草市・天草市・苓北町
に分れている
旧く中世から天草は、五つの豪族が分割統治してきた。
(彼らは大名ではない)
天草氏・志岐氏(しき)・栖本氏(すもと)・上津浦氏(こうつうら)・大矢野氏(おおやの)らが島内で、領土争いを繰り返してきのだ。
でも皆、中世菊池氏の支流なので元を辿ればファミリーではある。
河内浦城主・父天草鎮尚(しげひさ)と、子天草久種、そして本渡城主・天草種元について、そしてその時代の天草を見ていきたいと思う。
父 天草鎮尚の時代
戦国時代、父の天草氏14代当主・天草鎮尚は祖先発祥の地を、志岐氏から奪還し、天草五人衆の筆頭の地位を占めることになった。
父鎮尚と子久種の舞台はこちら↓↓
1566年 志岐氏領主・鎮径に招かれてアルメイダ修道士が天草にやってきた。
これが天草キリシタンの始まりだった。
この地で多くの人々が洗礼を受け
キリシタンとなった。
けれども志岐鎮径は貿易目当ての洗礼だったため、後に棄教している。
1568年 島原の口之津からトルレス司祭が移ってくる。
イエズス会の宣教会議を開催。
その後、2度目の宣教会議も、ここ天草で開催された。
1569年 父・天草鎮尚は領内でのキリスト教の布教を認めた。
アルメイダ、河内浦(天草市河浦町)での宣教始まる。
1571年 父・鎮尚はアルメイダから洗礼を受けドン・ミゲルとなる。
この時、子・久種も父と共に洗礼をうけドン・ジュアンとなる。
1576年 5年後、母も洗礼を受けドナ・ガラシャとなる。
母はこの時大変素晴らしく、機転をきかせる。争いになりがちだったキリシタンと仏僧達を和解させている。
「仏僧と仲良くしてください。仏僧も私も、イエスキリストの事を聴きたいのです。」と願いでた。
その願いは受け止められ、多くの人々が和解し、その結果、仏僧達までもがキリシタンになっていったという。
領内には1万5,000人の信者がいたという。
1582年 イエズス会巡察師バリニャーノが、天草の河内浦に来日する。日本宣教での困り事、日本人がキリストを信じ幸せになるには、どうしたらいいのか。。。話し合う。
そこでこんな風に決まる。
「キリシタンは仏僧と親しくするように。互いに神社仏閣や教会を壊すなどは禁止する。」という決定がなされた。
バリニャーノはこの鎮尚とその妻ドナ・ガラシャを通して深く「日本人」を知り、後にローマにこう伝えているとの事だ。
"東の彼方、日の出る処に日本という国があり、文武に優れた高貴な人々の住む国であるがこの国の人々は聖書を知らない。この国の人々がイエスキリストの事を知るなら、ローマの善き隣人となることでしょう。"
だからこの年に天正遣欧少年使節をローマへの使節として送っている。
またバリニャーノは。。。
宣教師達は日本語を習得するよう
日本人司祭宣教師を要請するための
初等教育神学校・セミナリヨ
高等教育神学校・コレジオ
修道院・ノビシャドの創設。
遣欧少年使節団の派遣。
グーテンベルグ印刷機導入により
書籍の発刊をするなど
精力的に宣教計画を立てていく。
後に、この計画は実現し
「イソップ物語」や「平家物語」
「羅葡日対訳辞書」なども印刷された
1582年 父鎮尚はアルメイダ司祭に看取られ亡くなる。
フロイス「日本史」にこうある。
「臨終が迫るひととき、鎮尚は息子達、身近な縁者、家臣達を集め、胸中にある言葉を残す。
彼ら全員が信仰に堅く留まり、神の教えから離れないように願った。
彼の言葉に一同涙を流した。鎮尚に励ましを受け、皆が信仰と愛を深めた。」
息子 天草久種の時代
1582年 嫡子の天草久種は家督相続。第15代天草氏当主となる。
1583年 その1年後アルメイダ司祭も河内浦で天に召される。
秀吉の九州統一(九州征伐)
1587年 豊臣秀吉の九州征伐が始まる。秀吉は大友宗麟の要請を受け、島津氏を討つための討伐軍を送ってきた。
天草五人衆は島津氏側についていたため、秀吉討伐軍に立ち向かうが、当の島津軍は、退却しハシゴを外されてしまう。城に立て籠り包囲される形となる。
フロイス「日本史」より
豊後大友氏の志賀親次ドン・パウロは、同じキリシタンでありながら敵対し、すでに勝ち目が失われ窮地にあった天草久種・ドン・ジョアンに使者を送る。
「貴殿は高名なキリシタンです。イエス・キリストは赦すという事を求めておられます。
私は貴殿と貴殿配下のキリシタンを赦します。
しかし、キリシタンでない者達は豊後の敵とみなします。
直ちに城から降り、私の所に来てください。」と伝えた。
天草久種は以下のよう返答した。
「私の命を助けてくださるという高貴で寛大な貴殿の申し出に、感謝いたします。
しかし私達五人の天草領主達は、隣同士で縁故関係もあり、ほとんど一心同体です。
出来うるなら私達五人を助命してください。
それが叶わない事なら、自分だけ帰郷するわけにはいきません。
自分もここで仲間と共に死ぬ覚悟です。」
大友氏の志賀親次ドンパウロは、
天草五人衆はもはや豊後の敵ではないと確信し、全員を赦す。
そして素晴らしい饗宴に招待し、天草久種ドン・ジョアンと縁者に、友情の印として自分の武具を与えた。
そして彼らが安全に、無事日向国に入るまで付き添い、見送っている。
天草五人衆は志賀親次の愛情に感動した。
種久以外の4人も感動し、上島・大矢野島は、その後たちまちキリシタンの島になったという。
1587年 大矢野種基、洗礼を受ける。大矢野への宣教を願いでる。
1590年 栖本城主 栖本八郎親高(ドン・ジョアン)他一族が洗礼を受ける。
上津浦種直(ドン・ホクロン)他一族、領主3500人が洗礼を受ける。
天正の肥後天草合戦
天草国人一揆
天草は秀吉軍に臣従し本領を安堵された。
秀吉配下の佐々成政、小西行長に従った。
ここで全てが平和になる事を、皆望んだ事と思うが、そうはならなかった🥲
1587年 秀吉が九州を制覇し、熊本は北半分を加藤清正、南半国を小西行長に与えた。
天草五人衆は、秀吉に服属し、本領を安堵されていた。行長の与力という支配下におかれた。
1589年 小西行長は宇土城の普請にあたり、その協力を五人衆に命じた。ところが志岐麟泉はこれを拒否、他の四氏もこれに同調する。
五人衆と秀吉や行長との間に認識のズレがあったためだ。
五人衆は秀吉には服属したが、行長とは対等と認識していた。
天草が行長の領地になるとは思ってもみず、戦いには参軍するが、城の修復を手伝う気はない、そう考えていた。秀吉の考えを理解していなかったのだ。
この時大矢野氏・栖本氏は静観した。志岐城・志岐麟泉と本渡城・天草種元は籠城した。
<志岐城の戦い>
行長は、これを秀吉に伝えた。
秀吉は直ちに討伐せよと命じる。
行長の家臣兵3000人を志岐城の志岐麟泉に向けるが、夜襲をかけられ行長が大敗する。
加藤清正・有馬氏らの助けで再び志岐城を攻めた。
その時、本渡城に客将となっていた木山弾正は、兵500を率いて志岐城へ出陣し、仏木坂で迎え撃った。
しかし、加藤清正との一騎打ちで討死している。
その後、肥後勢(小西・加藤清正)のみか、肥前の連合軍(五島・平戸・大村・島原)も加わり志岐城は包囲される。
合戦の後、麟泉は降参し、志岐氏は追放となる。
<本渡城の戦い>
本渡城城主・天草種元にも、小西軍 8000人、加藤軍 10000人の討伐軍が迫る。
キリシタンの小西行長は最小限の戦いに留め、天草種元の降参と講和に持ち込むことを望んだ。
しかし加藤清正は熱心な日蓮宗徒で、天草キリシタン撲滅を考えた。
本渡城を取り巻く肥後肥前連合軍は約20000人、それに対し種元軍
は全ての領民でも2300人程度、勝ち目など無い。
フロイスの「日本史」は語る。
「本渡カトリックは破れたが、天草女性軍300人は気高く、虎(清正)を退却させた。」
「行長は、本渡司祭館の司祭が巻き込まれぬよう、退却要請した。
しかし、本渡キリンタンを見離せないと判断した司祭と修道士は包囲されたまま城に留まる。
行長軍の兵士が、教会と司祭館を包囲し、キリシタンを守るという不思議な事も起きていた。
一方で清正は、鉄砲と大砲で城を武力占領し、キリシタン撲滅という功績を求め戦闘を続けていた。
味方のはずが、どっちがどっち?
双方の鉄砲と大筒の音が響き渡り、本渡の地は、揺れ動いた。
清正がジワジワと城に近づく中、
行長は司祭と城中の人々に使者を遣わし、話し合いに応じ大勢のキリシタンの死を回避するため投降するようにと勧告し続けた。」
「城主ドン・アンドレ天草種元との談合が功を奏し、良い方に事が運ぼうとした矢先だった。」
「1590年1月3日 清正は猛攻を加える。全軍を挙げて四度の攻撃をする。
城内の者は、司祭に罪の告白をし命を棄てる事も覚悟し、勇敢に応戦し、敵に甚大な損害を与えた。
司祭は終日休むことなく銃声の中で、信者らの告白を聴き、祈る事に日々を過ごした。
時に城壁の一角が崩壊し大勢の兵士が下敷きとなり戦死する。」
「このような状態にあって、籠城していた女性達は驚きの行動に出た。天草種元の妻、重臣木山弾正の妻、
その娘ら、嫁ら城内の300人の女性が奮い立つ。
すでに疲労し負傷している夫や息子の前に立ちはだかり進み出て死ぬまで戦う。
髪を断ち、衣の裾をたくし上げ、鎧・太刀・槍・様々な武器で身を固め、ロザリオを首に、まっしぐらに突入した。入り口から敵が侵入する事を勇敢に阻止し、大勢の敵に損害を与え勝利を収めた。
その後、清正の兵士は屈辱により300人の女性らを(生存者は二人)殺した。
後ほど敵兵までがこう言った。「天草の兵士は男ではない女子が、最も勇敢な兵士に優って優戦した。。。」
と。
「一方、行長の兵士、清正の兵士とも城への侵入が始まる。
行長の兵士は真っ先に司祭・修道士を、そして男女子供ら、1000人を城外へ連れ出し救出した。」
「城主の天草種元ドン・アンデレとその妻、重臣の木山弾正ドン・ジョルジも死を遂げた。男女、子供を含め1300人のキリシタンが落命した。」
「清正側でも、2000人近い兵士が戦死した。しかも彼らは精鋭中の精鋭であったので、それ以上の侵撃はせず、兵の再編成のために、肥後熊本へ引き上げた。
進軍を留めることができ、河内浦の天草久種ドン・ジョアンの城は救われたのだった。
300人の女性たちが命がけで戦い、獰猛な者達からキリシタン達と島とを守った。
行長は司祭の取り計らいによって
天草久種ドン・ジョアンと
休戦を取り決めることができた。
本渡とその地の村々を支配するために一人のキリシタン貴族を任命、土地を耕作する民を送った。
これにより、離散し放浪していた農民が帰ってきて職を得て、本渡が復興されていくことにもつながる。