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映画「沈黙サイレンス」*ロドリゴ


月は自分だけで光れない。
太陽の光をもらって輝く。
キリシタンの人生は月のよう。
たとえ世界が暗い時も
主イエス・キリストの
光をうけて輝く。


遠藤周作  原作「沈黙」の映画化
「沈黙-サイレンス」は詳細以外はノンフィクションだ。
主人公のロドリゴは、シチリア島出身のイタリア人ジョゼッペ・キアラ宣教師をモデルに描かれている。
イエズス会の宣教師だったけれど、彼が日本にやって来たのは鎖国も始まり随分と経った1643年だった。

1612年 家康の禁教が始まる
1614年 高山右近や宣教師たちはマニラへ。ペトロ岐部や小西マンショ、宣教師たちはマカオへと追放される。

1619年 京都の元和大殉教
1622年 長崎の元和大殉教
1623年 江戸の元和大殉教
1637~38 島原天草の乱

このように徹底的なキリスト教排除が行われた5年後に、日本へやってきた事になる。
困難が待ち受けている事を知りつつ、なぜ日本を目指したのだろうか。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
  ヨハネの福音書15章13節

                                    <新共同訳>


フィレイラを救いたい


日本宣教のリーダーだった司祭クリストヴァン・フィレイラ。
若い司祭達の恩師フィレイラは、激しい弾圧により1633年、日本で棄教した。その衝撃の便りが、ヨーロッパへと届いたのだ。
彼らは愛する師を救い出したい!と願った。

「フェレイラの背教がヨーロッパに知れると、イエズス会その他の修道会の中に非常な苦痛を与えた。イエズス会士は自分の血で修士の罪を洗うため、皆競って日本に遣られることを望んだ。
1635年、イエズス会の神父34名がリスボンで乗船したのだった。
マストリリの一団である。
(パジェス『日本切支丹宗門史㊦』p302)

しかしマストリリの一団は難破などのトラブルで日本上陸できたのはマルチェロ・マストリリのみ。
そのマストリリも上陸後捕縛され、1637年、殉教した。


1641年、イエズス会アントニオ・ルビノ率いる9名のルビノ第一団(ルビノ含むディエゴ・デ・モラレスら5人の宣教師、4人の従者はマニラを出発し薩摩の下甑島に上陸するが、すぐに捕縛され長崎に移送される。長崎での長い拷問を受け、遂に1643年、全員が穴吊り刑で殉教した。

1643年アントニオ・ルビノ殉教。

同1643年ディエゴ・デ・モラレスの殉教。

1643年6月 ペドロ・マルケス率いる10 名のルビノ第二団、ジョゼッペ・キアラ含む5人の宣教師、5人の従者達は筑前国宗像郡の大島に上陸する。が、直ぐに捕縛され長崎送還された後に、江戸に護送される。

キアラにとって、20年来の日本にいくという願いが叶った瞬間だった。
しかし直ぐに捕縛、長崎そして、
同1643年8月(到着2ヶ月後)には、江戸の小伝馬町牢獄に送られた。そこで切支丹奉行井上政重のもと尋問を受ける。
ところが当のフェレイラが沢野忠庵と改名し、幕府の通訳として現れ、キアラたちは驚愕する。
また井上政重自身、キリシタン大名の蒲生氏郷の家臣で、元キリシタンだっただけに宣教師やキリシタンについて熟知していた。
巧みな心理操作、優しい言葉と穴吊りの拷問(これは非常な苦しみでキリシタンだけに行われたもの)により、3日目にキアラも仲間達も棄教してしまう。
↓↓↓以下は彼らが尋問され、拷問され投獄された小伝馬牢跡です。

東京中央区にある十思スクエア・
十思公園・大安楽寺・身延別院を含む
一帯が小伝馬町牢だった。
ジョゼッペ・キアラ達はここで尋問、
拷問を受けたと思われる。
ペトロ岐部はここで殉教した
とも言われている。
十思スクエアという建物の一階
とても小さなコーナーに模型が
設けられています。簡単な説明も見れて
当時の牢屋を想像できます。この牢には
様々な犯罪により捕らえられた罪人達が
全て収監されていました。


十思公園の向かい側は大安楽寺。
ここが当時は刑場だった
説明板   小伝馬町牢屋敷跡

小伝馬町牢は慶長年間に常盤橋際から
移ってきた。明治8年市ヶ谷囚獄が
出来るまでの約270年間存続し、
この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数10万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の区別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓年は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鍋物額に「為因死群霊離吉得脱」と記されてある。本屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御場死刑場役は有名な山田浅右工門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与カー人月番で本屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曽有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三機三郎等50人余りを獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もここで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。これ等愛国不蓋忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士96名の祠と木碑が建てられてある。


話しは戻ります。その後、キアラ達は再三棄教の取り消しを主張したが、受け入れられる事はなく、コロビ背教者としての牢獄と幽閉の生涯が待っていた。
一方でフィレイラだけは、棄教したのち<目明し忠庵>として重んじられ、奉行のもとで働く事が許されていた。


ペドロ・マルケス達、ルビノ第二団の棄教


殉教と棄教のはざまで


1646年日本に来て3年後、小石川切支丹屋敷(現在の東京都文京区小日向1-24-8131)に、キアラ達は収容された。
小伝馬町牢獄にいた彼らを、井上重政(大目付兼宗門改役だった)が自分の屋敷で預かると言い出したのだ。
そして自分の屋敷内に牢獄と番所(警護見張人詰所)を設け身柄を移したのだった。
キアラは、すでに処刑されたキリシタン岡本三右衛門(おかもと さんえもん)の名をあてがわれ、またその妻を娶るように命じられた。妻帯させることで、司祭としてのアイデンティティも奪うことができるからなのだろうか。。。
食料などは与えられたが、幽閉され屋敷内から出る事は許されなかった。
2〜3年の間に4人が亡くなっていった。残されたキアラ達は仲間の死を見送り何を思っただろうか。
涙を流したに違いない。
キアラ達は、幕府側に宣教師についての情報提供をし、宗門改方の業務を行わされた。
これは棄教の罪悪感に加え、神や信者達への裏切りという二重三重の、いや四重五重の苦悩だったと思う。
そして、そんな28年の年月が流れた。。。
映画の中で、切支丹屋敷にいる彼らを見て感じたことは、彼らの表情が能面のように固まっていた事だ。
人間らしさ、泣く、笑う、怒る、喜怒哀楽を閉じ込めた、失った顔。
私の人生にもそんな時期があったから、少しだけ感じるものがある。

ところで、下の写真は文京区小石川にあった切支丹屋敷跡の現在の様子です。素敵なマンションのひと隅に石碑と説明板がありますが、気がつく人も少ないような路地裏です。

今は素敵なマンションが建っています。説明板に近づいてみます。
切支丹屋敷などは、後日別の投稿でもう少し丁寧に書いてみたいなと思った。
道を挟んだこのマンションの反対には↓↓↓の石碑が。
この辺り一帯に、井上政重の大きな
切支丹屋敷がありました。


キアラの晩年と召天


1674年、晩年72歳のキアラは、奉行の命令でキリスト教の教義書『天主教大意』三巻を執筆した。(この書はもう現在は残されていない。ただその一部分を、新井白石「西洋紀聞」から推察する事はできる。なせなら白石は、キアラの著者をよく読み込んでいたからだ。


実はこの34年後の1708年、キアラの故郷シチリア島からジョヴァンニ・シドッティ宣教師が日本やってくる。シドッティは日本の鎖国時代の最後の宣教師となった。
この時、シドッティの取り調べをしたのが、儒学者の新井白石だった。新井白石はキアラの著書を良く研究した上で、その尋問に臨んだ。著書は大いに役立った事だろう。更に白石はシドッティへの尋問に基づき、後に『西洋紀聞』を著している。
キリスト教の話は理解し得なかった白石だが、宣教師が日本を侵略しにきたわけではないことを理解して、シドッティを本国へ返すよう幕府に進言している。
結果的にはシドッティも帰国はできず、小石川切支丹屋敷で一生を過ごすことになるのだが。


1685年、83歳のキアラは病気のため召天する。人生の半分以上、43年という時間を幽閉生活のなかで生き、幽閉されながら人生を閉じた。
遺体は火葬された(当時のキリスト教では火葬は禁忌だったが)。
切支丹屋敷に近い小石川無量院に葬られた。
墓碑には「入専浄真信士霊位、貞享二乙丑年七月廿五日」とある。墓石の笠が司祭の帽子に似た特徴ある形で、戒名の「入専」は「ジュセン」と読み「ジュゼッペ」から取られたものだという。

1908年(明治41)東京市の区画整理で無量院の墓地が縮小した。

1909年(明治42)そのため、キアラの墓は雑司ヶ谷霊園へ移転された。

1940年(昭和15)サレジオ会司祭のクロドヴェオ・タシナリ神父がキリシタン研究の中で切支丹屋敷の調査を行い、キアラの墓碑が無量院にないことを知る。
タシナリ神父は雑司ヶ谷墓所にキアラの墓碑があることを知り、管理人に墓碑の寄贈を依頼する。

1943年(昭和18)タシナリ神父とサレジオ会神学生が、墓碑をリヤカーに乗せ、当時の練馬サレジオ神学院に移設した。

1950年にサレジオ神学院が練馬区から調布市へ移転。
キアラの墓碑も再度移設、現在は調布サレジオ神学院内・チマッティ資料館(調布市富士見町3-21-12)前に置かれている。

タシナリ神父のキリシタン達への 熱意にも心が動かされました。よかったら読んでね   ↓↓↓


サレジオ神学院内に最後にやっと
辿り着いた石碑。いるべき場所に帰れて本当よかったですね🥲

今回調布カトリック教会とサレジオ神学院におじゃますることができて、写真を撮る事ができた。

さくら🌸が咲いてました。
こんなに寒いのにすごいね。
十字架が天を指さしています
椿の花も咲いている。
チマッティ宣教師の資料館です。
突然訪れたのに、信者さんが中を
案内してくださいました。いつもどなたかが交代で常駐されてるようです。
入場は無料です。
こちらが江戸時代に作られた
キアラの墓碑
背高ノッポでした。私の身長より高い。
状態も良く、歴史的に価値あるもの
として調布市指定有形文化財
となりました。
説明板  キアラ神父墓碑
「沈黙」のモデル キアラ神父
イエズス会士は1602年イタリアのシチリア島で生まれ、1643年鎖国中の日本に潜入し、捕らえられて江戸の切支丹屋(文京区小日向)に送られた。穴の拷問に耐えられず棄教したといわれるが、実際には世を去った1685年8月24日(貞享2年7月25日)まで42年間も幽閉され、「キリスト教要論」(現存せず)3冊を著したことからみて、信仰に戻ったと思われる。彼に与えられた日本名は岡本三右衛門。
尊敬のしるしとして地位の高い戒名を与えられ、墓標に司祭帽が載せられた。
その墓は小石川無量院にあったが、1909年区画整理のため境内縮小され雑司ヶ谷共同墓地に移された。1943年サレジオ会員タシナリ神父が墓石を発見、許可を得て練馬のサレジオ神学院に移し、
1950年調布神学院に移動した。
遠藤周作著『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルとなったのは、このキアラ神父である。
説明板 市指定有形文化財(歴史資料)
ジュゼッペ・キアラ神父墓碑
キアラ神父(1602〜85)は、イタリアのシチリア島バレルモ生まれのイエズス会宣教師です。
寛永20年(1643)5月、キアラ神父ら
10人は筑前国宗像郡大島で捕縛され、江戸小日向(文京区)の切支丹屋数に収容された後、拷問に耐え切れず棄教したとみなされました。
キアラ神父は岡本三右衛門の日本名と妻を与えられ、宗門改役御用人として10人扶持の処遇で、切支丹屋敷に43年間幽閉された末、貞享2年(1685)7月25日に病死し、遺体は火葬後、小石川無量院に葬られました(享年84歳)
本墓碑は笠・塔身・基台・水鉢からなりますが、戒名の「入専」はジュゼッペの当て字と考えられ、笠は宣教師の山高帽のような形をしています。無量院の焼失により、明治42年(1909)に雑司ヶ谷墓地へ移されますが、昭和18年にタシナリ神父によって発見され、練馬のサレジオ
神学院に移された後、昭和28年同神学院の調布移転に伴い、現在地に移設されました。なお、キアラ神父は、遠藤周作の「沈黙」の主人公ロドリゴ神父のモデルとして知られています。
平成28年5月2日
調布市教育委員会
調布市教育委員会からの指定書
こんな貴重なものまで撮影させて
くださり感謝感謝でした。


上の説明板にもあったキアラが最初に埋葬された墓地、無量院は1959年(昭和34)廃寺となった。
けれども、2025年現在でも小石川傳通院(元無量院の隣接地)には、小さな「ジョセフ岡本三衛門」の供養碑を見ることができる。

小石川傳通院に隣接した
広大な墓地を探し周るとやっと見つけた
1番奥にひっそりと小さな供養塔が。。。

大きな石碑に隠れて見落としそうだった。

ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑
とありポルトガル語?で刻まれる文章。
読めない😭神父の帽子の形。


贖罪愛と希望

最後になるが、ジョゼッペ・キアラ神父は棄教したと伝えられるが、史料によれば最期まで心の中では信仰を持ち続けてのではと憶測される点が多いという。
井上政重の覚書『契利斯督記』または牢番の原甚五兵衛の日記などによって、たびたびキアラは「不届き者」と記されている。
檀家になることを求められたが拒否していたという。
「天主教大意」3巻執筆の折りにも、その内容が幕府側の意にそうものでなかったためか?わからないが、翌年そのために吟味・検閲を受けていた。
さらに現在その本が存在しない事自体が、公権力にとっての焚書すべきな内容だったのかもしれない。
どちらにせよ軟禁状態が最後まで続いたことを考えても、彼が最後まで背教を否定し続けたことは推察される。


冒頭に挙げた。
マルチェロ・マストリリ
アントニオ・ルビノ
ディエゴ・デ・モラレス
私などは、殆どその名を知らなかった殉教者達。彼らのように、太くて短い殉教の人生がある。

でもジョゼッペ・キアラの人生も、長い長い殉教の道のりだったではないか。。。
私にはそんな風に思える。
人間に過ぎない小さな私の希望なのだが。

そしてキアラたちが日本にやってきた動機は、純粋な愛から出ていた。
誰かを救いたいと。
フィレイラを。日本の弾圧下のキリシタンを。

人がその友のために命を捨てる。これほど大きな愛があるだろうか。






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