養女*ジュリアおたあの物語
宇土城跡の小西行長説明板の隣に「ジュリアおたあ」の説明板が仲良く立っている。
ジョアン・ロドリゲス神父は『イエズス会年報』に高麗生まれ「ジュリアおたあ」の信仰熱心な姿を
「茨の中の薔薇」と書いた。
時はまさにキリシタンにとって茨の時代だった。
タイトルには"養女ジュリアおたあ"と書いたけど、本当には猶子というらしい。
説明板の内容もお借りしつつ、
「ジュリアおたあ」の物語を見ていきたいと思う。
小西行長は秀吉の朝鮮出兵で、朝鮮半島で戦った。平壌での戦いのとき、孤児となった当時13歳のおたあと出会ったようだ。
1592~93年 文禄の役、平壌で孤児となった朝鮮人の少女は保護された。
名前を聞くと「オプタ(없다 無い)」と答えたので転じて「おたあ」と呼ばれるようになった。
あるいはこんな話しも。。。
行長の居城である肥後宇土城に入ったとき、まだ日本語が分からず「いらっしゃい」と現地の言葉で言っていたのが、周りからは「おたあ」と聞こえたとか。
それが名となり、「おたあ」と呼ばれるようになった。
とにかく女の子は行長に連れられ海を渡り、日本へやってきた。
養女・侍女となり行長夫人のもとで育つ。
1596年16歳 イエズス会のモレホン神父より洗礼を受け「ジュリアおたあ」として歩み始めた。
おそらく前回書いた小西マリアとも
交流はあったに違いない。
行長夫人の教育により、小西家の家業と関わり深い薬草の知識を深める。
行長が設立した施薬院(貧しい人々を世話する施設)を手伝いながら、慈悲深く聡明な女性へと成長する。
1600年の「関ヶ原の戦い」を境に、ジュリアの人生は大きく変わっていった。
行長は、西軍として参戦し大敗する。そしてこの戦いに敗れたことにより行長は処刑された。
小西家は没落の一途をる。小西家は離散して行く。
ジュリアも生活に窮していく。
ジュリアの聡明さ、美しさは評判だった。
徳川家康は伏見城の大奥に呼び寄せ、正室朝日姫の食事係とした。
家康は壊れた秀吉の伏見城を再建し1603〜1606年を伏見城で過ごす。ここで江戸の新幕府作りのための基盤固めをしている。
ジュリアは、一日の仕事を終えてから毎夜祈りを献げ、信仰書を読み、他の侍女たちをキリストへの信仰に導いたという。
ジョアン・ロドリゲス神父は、『イエズス会年報』の中で「ジュリアおたあ」の信仰熱心な姿を「茨の中の薔薇」と書いている。
1606年 家康は江戸城にジュリアを連れていく。
家康の許可を得、江戸城下はフランシスコ会の天主堂が作られた。
ジュリアは、この天主堂のミサに通いはじめた。
1607年 家康は駿府城で隠居する際にもジュリアを連れていった。
1612年 岡本大八事件を機に家康が突然、キリシタンを排除するようになる。
1612年 キリシタン禁教令
家康はジュリアにも棄教を迫る。さらに家康69歳の側室になるようにと迫る。
これに難色を示したため駿府より追放「伊豆大島」へ流刑される。
1612年 ジュリアおたあ流刑
その地においても信仰生活を守り、見捨てられた病人の保護や、自暴自棄になった若い流刑人を励ますなど、島民の日常生活に尽くしたとされる。
ところが徳川家康から繰り返し呼ばれ、「従う事を条件に赦免する」と言われ続けた。
ジュリアはキリシタンであることを望み、徳川家康からの再三の要求を拒み続ける。
拒むたびに他の島々、「新島」そして「神津島」など流刑地を転々とすることになった。
執拗に追ってくる老境の家康とその仕打ち、人の命をも自由にできる天下人にNOを言えたジュリアの強さはどこからきたのだろうか。ジュリアが畏れたのは神だけだったのだろう。
ジュリアの故郷は元々朝鮮半島。
連れてこられた日本で、たとえ親切にされても、評価されても、異国にかわりなかった。
父親代わりと頼った小西家も去っていった。
ジュリアは変わることのない天の故郷、去っていく事のない天の父なる神様から離れる事ができなかったのかもしれない。
実際にジュリアの信じた「天の父」は、いつもいつも彼女を支えた。
ジュリアおたあの人生は謎に包まれているという。
人生の後半や終焉の地など、長年わからないままだった。
神津島からの異動説
ポルトガル神父の書簡により
1619年に神津島を離れ、大阪へ。そして長崎へ移ったと、神父の書簡には記録されているという。
1620年に長崎で、その2年後に大阪にいたと言う話も書簡にあるという。
神津島で没した説
神津島郷土史家の研究より
1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎氏が、島の供養塔がおたあの墓であると主張した。
そして神津島で没したという説が浮上する。
1970年代よりカトリック東京大司教区は、神津島でジュリア祭という行事を開催し始めた。
毎年日韓のクリスチャンが神津島での記念ミサを行うのだ。
それは長く続き、半世紀にも及んだ。
ところが。。。
新しい資料の発見
2023年4月19日
萩博物館(山口県萩市)が「ジュリアおたあ」の直筆書状が初めて見つかったと発表した。
「悲劇のキリシタン女性にまつわる貴重な史料」としている。
その資料により解って来た事は。。
ジュリアおたあには、朝鮮戦争で生き別れた弟がいた。その弟が日本に来てるとは思わず、探す事もなかったが。。。
上の1通目の手紙の内容は。
“私の弟は手に青いあざがあり、足に赤いあざがあります。あなたも同じ部位にあざがありますか? どうかお答えください... 私たちの兄弟の中で、あなたは親と一緒に逃げたと思っていましたが、私と同様にこの国に連れてこられているとは...”
山口県の萩博物館は他にもおたあが自ら書いた3通の手紙をも初めて公開した。
古い日本語で書かれた手紙と現代日本語への翻訳だった。
1607~1612年 駿府城に住んだジュリアは、日本各地の情報を得る機会を持った。
ある日、彼女は耳を疑うような話を聞く。
山口一帯を支配する毛利氏の家臣、平賀氏の家に、自分の弟に似た朝鮮人捕虜がいるというのだ。
1609年 江戸初期慶長14年8月19日、彼女は萩で下層民として暮らす「うんなき」に、最初の手紙を本当に弟であるのかを確かめたくて送っている。
その書状は、弟が長州藩にいると知ったおたあが、体のあざの位置などを記して本人確認する内容だ。
切羽詰まるジュリアの気持ちが伝わる手紙。
またジュリアは。
「あなたのいる家の一族の人が、
朝鮮にいた時のあなたの様子を話すのを聞いて、私は私の弟に違いないと思いました。
日本にいるとは思わず、それまで探していませんでした。
私の弟であるのなら、約20日間休暇を貰って駿府に来てください」
そう必死に頼みます。
弟「うんなき」と会いたいと望む気持ちが現れている。
秀吉の攻撃が始まった当時、ジュリアの家族であるキム(김)氏一族は日本軍から逃れて、散り散りになったのに、今再会できるかもしれないのだ。
「私は1593年に漢城(ソウル)で別の11歳の弟と小間使いと一緒に連れ去られた」
これら3通の直筆書状は、長州藩士の村田家に伝わり、子孫が同館に寄贈した。
村田家初代の村田安政こそが、おたあの弟「うんなき」だという長州藩の記録があり、2人のつながりを裏付ける発見となった。
村田家からは、おたあの仲介で弟「うんなき」が家康に面会し、その際に与えられたという家康の小袖(身丈121センチ、 裄ゆき 丈59センチ)も寄贈された。
ジュリアからの手紙を受け取った弟は、幸運にも駿府に行き、姉のジュリアと再会した。
また、弟は家康に会い、家康が着ていた着物(小袖)、刀、馬などを下賜された後、萩に帰った。
徳川家康の好意を受けた弟に、毛利氏一族は 村田という名前と「封土」(200石)を授与した。
こうして朝鮮人捕虜の “ウンナキ”は日本の武士“ムラタ・ヤスマサ(村田安政)” となったのだった。
その後村田家は、萩に拠点を置き、武士として生活した。
ジュリアが書いた3通の手紙と、家康から授かった着物などは、代々の子孫に大切に保管されてきた。
そして最近、安政の直系の子孫であるノリオ氏(1941年生まれ)が、萩博物館に寄贈し、一般に公開される運びとなった。
わかってきた
ジュリアおたあの人生
1616年 家康の死後、流刑から解放されて各地で信仰生活を送ったことがわかった。
1619年 長崎に滞在し、女性や子供たちに教義と聖歌を教えて、追放される。
貧しい放浪生活をしながらも福音を広める努力をした。
1622年 ジュリアの最後の記録
イエズス会の日本管区長パチェコ神父が書いた手紙で、「大阪で宣教師たちの援助を受けながら生活している」と記されている。
その出自は、李氏朝鮮の貴族階級「両班」の娘と言われる。
上記のサイトより
情報をいただきました。