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大分キリシタンの物語

はじめてこの話を読んだとき、私は泣いた。気がついたら、となりにいた夫に夢中になって、この親子の話をしてた。夫もとなりで涙をふいてた。



前回、小倉の加賀山隼人の殉教について投稿しました。
今回の主人公は、パルタザル加賀山半左衛門。隼人の親戚で、隼人と同じ日に大分で殉教した。
「親戚」と書いたのは、ある本には「いとこ」と書かれ、でもあるサイトには「義理の兄弟」とあった。どっちかな???
半左衛門は、隼人の妻アガタの実の兄弟らしいので、きっと「義理の兄弟」なのだろう。まぁ、それはよいとして。

物語のはじまりは。。。
1600年 細川忠興が大阪から九州豊前の中津城に移封されたところから。
1602年 忠興は小さかった小倉城を改装し、完成すると藩庁をそちらへ移して引越した。小倉は中津より地の利がよかったからだ。
忠興は小倉に移るときに、中津に息子の忠利をおき、国東を守るためには日出に木下延俊(忠興の義弟で、亡き秀吉の正室ねねの甥っ子でもある)を残した。
忠興は、その木下延俊の家臣として、自分の信頼する隼人の親戚、
半左衛門をおいた。
日出は港町として栄えていたが、
その出入りする船や荷物などの税金の徴収や管理する仕事をしていた半左衛門にとって、これは昇進ともいえた。
半左衛門が赴任したとき、日出には教会がなく、司祭もいなかった。半左衛門の妻ルイサは、小倉の隼人に教会と司祭が必要であると手紙を出す。それを受け、セスペデス神父が1人の司祭を派遣してくれた。
半左衛門は、やがて木下延俊からの深い信頼を受けていった。


1611年 セスペデス神父の急死をきっかけに細川忠興は、キリシタンの弾圧に踏切る。

これにならい日出の木下延俊もキリシタン迫害を決定する。

そのため半左衛門も職を奪われ、貧困、監視という苦しい生活をする事になった。
棄教を迫られるが、信仰を棄てることはできなかった。

1619年 加賀山隼人が処刑される。同じ日、1619年10月15日に半左衛門に死刑が宣告された。
父半左衛門と4歳の息子ディエゴが殉教する。

1619年度のイエズス会「日本年報」にはこのようなエピソードが記されている。



 "半左衛門は、役人からどこで処刑されることを最も望んでいるかを尋ねられ、半左衛門はいっさい彼らの思いどおりに任せると答えました。すると、娘テクラが「お父さん、あなたは盗みや恥ずべき行為で処刑されるのではありませんから、家から外に出る必要はありません。あなたは家の中で斬られてよいことですし、家族もそれを喜びとするでしょう」と言いました。しかし、半左衛門は「キリストは何の罪もないのに、戸外の公の刑場で2人の盗賊の間で処刑された。自分も主に倣いたい」と娘に答えました。
半左衛門は、妻と娘に足を洗ってもらい、着替えをし、ロウソクを携えて役人の方に進みました。すると、まだ幼いディエゴが、父に抱きつき、「自分も一緒に連れて行ってほしい」と涙を流しながら頼みました。
このとき、半左衛門は、ディエゴにも死刑の宣告が下されているとは知りませんでしたが、ディエゴを晴れ着に着替えさせ、随行することを許しました。
2人は、別々の道を通って刑場に向かいました。
 半左衛門は刑場である成敗場に着くと、役人たちに自分の信仰について語り「わたしは何の罪も犯した覚えはないから、どうかあなた方も、わたしの身の上を哀れまないでもらいたい。わたしはキリシタンの信仰という唯一の理由で殺されることを、光栄だと考える」と言いいました。
半左衛門は、跪座(きざ)し、斬首されました。
 ディエゴも、父の刑を確認した後、父に倣いひざまづき「イエス、マリア」の名を唱えて同じように斬られました。半左衛門は47歳、ディエゴは5歳でした。"



殉教場所についてのはっきりとした記録はなく、藩の処刑場ではないかと推定されるとのこと。
日出殉教公園のすぐ上にある日出藩の成敗場跡ではないかといわれている。




⭐️大分カトリック教会
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⭐️日出殉教公園
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