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多忙すぎるPSWの方々の現場を思う
昨日、ある精神保健福祉士さん、つまりPSWさんから返信のメールをもらった。福祉系大学へ私がこのたび入学したことを報告したので、その返信をくれたのだった。
そこには、「幸せのお裾分けをもらった気がしてとてもありがたいです」という趣旨の私への祝福の感想が書かれてあった。それだけではなく、さらにそこには「(PSWさん自身が)定年を迎えても、嘱託としてますます多忙な日々を送っている」ということが書かれてあった。私は、そのメールの文面からPSWの現場の切実な多忙さ、悲鳴のようなものを感じてしまった。
それでいまここに、そのPSWさんへの返事のつもりで書いている。
そのPSWさんは、10年前に私が初めて会ったソーシャルワーカーだった。
ソーシャルワーカーという専門家の存在を知り、そんな人が実在するのかを確かめたくて、10年前に私は近くの福祉施設に電話をした。そして、初めて出会ったソーシャルワーカーが、そのPSWさんだった。
それまでの私は、複雑で重い心の病を抱えているのにフルタイムで働かざるを得ない、変な立場だった。障害者でもなく、健常者でもなく、支援の届かない社会の片隅に閉じこもった「働く引きこもり」だった。
そんな私に福祉の制度を教えてくれて、支援の輪の中に繋げてくれたのがそのPSWさんだった。
10年前、そのPSWさんに会いに行った面談の日に、PSWさんは私に言った。
「よく来てくれました。そのあなたの行動が素晴らしい」と。
私の行動を肯定し、歓迎し、褒め称えてくれた。
私はそれまで、誰にも自分自身にさえ、肯定してもらったこと、歓迎してもらったこと、褒めてもらえたことがなかった。だからこそ、あの力強い第一声を私は忘れない。
10年前のPSWさんのあの言葉があったから、10年後の福祉系大学の扉を叩いたいまの私が形成されていると感じる。そのPSWさんへは感謝しても感謝しきれない思いがある。
そのPSWさんが、「PSWは多忙なんだよ」と打ち明けてくれた。この時私は、「ああ、私は当事者側から支援者側に早く脱皮しなければ」と、当事者の立場からの早急な卒業を思った。
私は当事者の立場しか知らないが、当事者の目から見ても多忙なソーシャルワーカーさん達の現場を目撃してきた。
世の中は、障害者や当事者をマイノリティー、つまり少数派だと思っているかもしれないけれど、当事者の立場から見ても、当事者と言われる立場の人は少ないわけではない。とてもたくさんの、いろんな立場の、いろんな事情を抱えている、いろんな段階の当事者が居て、実はその現場(社会)には私たち当事者で溢れていると言っても良いのではないかと思えるくらい、生きづらさを抱え困っている立場の当事者はたくさんいる。
それは、高齢者や障害者という括りにはもはやできなくて、女性や子供の分野でも足らなくて、それぞれの年層にそれぞれ引きこもりだったり、その年層ならではの障害だったり、病気だったり、罪を犯してしまったり、生きづらさがあっての当事者層なのだ。
国民総活躍社会という言葉があるけれど、人は生きている限りそれぞれ固有の苦難がつきものだから、生きづらさで困っている人が社会に溢れているのは当然かも知れない。私には、今の日本の社会には、国民総お困り社会の様相が見えるのである。もちろん、少し誇張し過ぎていると思っている。何にも困っていない国民もいるのかもしれない。
つまり、国民総出で、生きづらさを発言できる社会になってきているのだろうと私は思う。生きづらい社会のなかで、生きづらさを発言できる人が増えてきた。まだまだ全国民には至れていないと思うけれど、生きづらさを声に出して、支援につながる人が増えてきた。
増えてきたのは良いことかも知れない。けれど、その声を受ける人、つまりソーシャルワーカーの数が圧倒的に足りてない現状を思うのである。
恩人であるPSWさんからもらった「私たちPSWは多忙だよ」という言葉から、そんなことを考えた。
じゃあどうすればいいか?
ソーシャルワーカーが増えるのを高みの見物で待つしかないのだろうか?
私たち当事者にも、できることがあるのではないか、と感じるのが私のいまの時点での答えであり、それを考え考え、実践するのが当事者経験を持つ私の使命だと思っている。
長々と書いてしまいました。
ここまでおつきあいいただき、誠にありがとうございました。
これからも、学びのなかで感じること、考えていることを、細々としたためていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。