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夢日記「空分ける神の一筆」
空分ける神の一筆
手に、金属質のものが触れている。手だけではない。足先にも、頬にも、鼻にもそれが接触している。どうやら、うつぶせで寝込んでいたようだ。随分長くそうしていたのだろうか、自分が寝転がっていた一帯が体温でぬるく温まっていた。
地面が揺れる。体が横に動いたと思えば、急にふわりと浮き上がる。それも束の間、今度は地面に向かってより圧力がかけられるような形になる。鼻骨がひしゃげ、思わず呻き声をあげた。一体どうしてこんな目に合わなければならない。
悲鳴を上げる鼻骨を助けるべくがばりと起き上がると、周り一面に広がるのは黒々とした海。空を覆う雲の中から、太陽が必死に存在を主張している。雲の一部分だけが明るく浮き出して見えた。陸は、今のところ見当たらない。
私は、海の上に浮いた三メートル四方ほどの金属の立方体の上で、なすすべなく波に揺られていたところなのだ。その狭い立方体の角に、男が腰かけている。話しかけようとして、立方体の中心に丸まっている生き物に気づいた。
猫だ。黒と白のぶち模様の猫。水が怖いのだろう、体を固くして、縮こまっている。波が立方体を揺らすたび、猫の体がさらに強張る。可哀想になって手を伸ばしたその時、踏ん張り切れなくなった猫が縁まで滑り、海に落下した。
それを目にした男が、
「ああ!」
と叫び、即座に海に飛び込んで、もがく猫を抱きかかえた。猫の手が跳ねさせる塩水が目に入ったのか、男は目を瞑って立ち泳ぎをしながら立方体のふちを掴もうとしている。
「大丈夫ですか。こっちです、上がってください」
手を差し伸べると、男は助かる、と言って這い上がってきた。
「それにしても、どうして私たちはこんなところにいるんでしょう」
濡れ鼠になった猫に手を伸ばす。猫はこちらを見やると、勢いよく体を振った。海水が飛び散り、まだ濡れていなかった私もびしょ濡れになる。随分と豪快に体をふるうので、なんだか大型犬を思い出してしまった。
「いやあ、分からないな。気づいたらここにいたんだ」
「私もです。よく分からないけど、猫ちゃんが助かって良かった」
「そうだな…」
男はわしゃわしゃと濡れた髪を掻いた。やや長めの襟足からぼたぼたと水が滴るが、私は拭くものを持っていなかったので何も差し出すことができない。
男は鬱陶しい髪をなんとかすると、次は服を絞り出す。海水は、元通り水面へと吸い込まれていった。
「あ」
男は水滴を払うように頭を振ると、ゆっくりこちらを振り向く。
「電話線だ」
「電話線?」
「ああ。…電話線だ。あり得ないかもしれないけど、電話線の中を通って、俺たちはここに送り込まれてきたんだ」
急に何を言い出すんだ。そんなことは、当たり前のことじゃないか。幼稚園生だって、いや、この猫だって知っているかもしれない。
「何ですかもう、いくらびっくりしたからって、世紀の大発見みたいに言わなくていいじゃないですか」
男は絶句した後、潮で赤くした目を見開いてまくしたてる。
「…だって、それしか考えられないだろう。こんな海の上に取り残されるなんて、あいつらが電話線を使ったとしか」
「だから、それが当たり前だって言ってるんですよ。だって、あそこにあるじゃないですか」
私は頭上を指さす。曇天の中を、一本のそれが横切っている。乱反射した太陽光が黒いカバーを鈍く輝かせる。どこから伸びてきているのか、どこまで続いているのかは知らない。でも、この一本の線が、私達をどこにだって連れていくことができる。
電話線。そう名付けられた一本の線。私達の空にあるのは太陽と、雲と、これだけだ。それ以外のものはいらない。
たった一本のか細い線が世界に小さな小さな影を落とし続けていた。
海のうねりは影の色を吸い込み、離散させていく。
金属質の立方体は私達を乗せて、揺れ続けている。