寄り添うこと、共にいること
ふと、寄り添う、という言葉に違和感を感じた。
近くの小学校のそばを通り過ぎた。
校庭には、学年がまちまちの子どもたちと、若い先生数人がおり、子ども同志、または先生と一対一で、思いおもいに遊んでいた。
他に体育の授業中の子どもたちはおらず、授業時間中に校庭で遊んでいる。
その様子を見て、スペシャルニーズクラスの子どもと先生たちではないかと想像した。
スペシャルニーズ、いわゆる支援級は、本人に困難さや支障があり、学校での生活に何らかの支援や配慮が必要な子どもたちのクラスと考える。
子どもたちを支え、寄り添うことが、先生や周囲の人たちの役割ではないかと何の気なしに思っていた。
子どもたちと先生たちが校庭での時間を一緒に過ごしている様子は、先生と生徒、上級生と下級生、という役割はあるけれど、それぞれが対等で調和した空気感が漂っていた。
それは、支える、寄り添う、ではなかった。
それを見て、支える、寄り添う、という表現は、なんとなく一方的な感じがしたのだ。
かわりに、共にいる、共存している、という言葉がしっくりときた。
もちろん、状況によっては、誰かが誰かを支え、寄り添うことが必要なこともある。
だが、気をつけていないと、寄り添う側の自己満足になっていたり、支えが必要なひとを、知らず知らずに無力な存在と思っているかも知れない。
ほんとうに些細なニュアンスの違いだけれど、寄り添う、よりも、共にいる、ことをしてゆけるようになりたい。
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