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運とツキは引き寄せられる

障害分野の事業に携わるようになって早10年以上が経過した。きっかけは上場企業における障害者の法定雇用率の遵守、維持という人事部門の採用課題に対していかに向き合い組織のマインドチェンジを醸成していくか、その難関課題への挑戦でした。

当時の大手企業、名だたる大企業たちは、自社のネームバリューとブランド力を前面に掲げ「身体障害者」の採用を積極的に行い、ハード面のバリアフリー化に積極的に投資し、法定雇用率を維持していたものだ。

一方、上場は果たしているものの名もなきベンチャー企業の人事部門としては、前述のような方策は一切通用しない。なぜなら、職務能力の高い「身体障害者」たちは無名企業には見向きもしてくれないからだ。私たちがそこで戦いを挑んでも勝ち目がない。

それでは別の方策をと、障害採用のマーケットに目を向けていると取り残されている障害者たちの存在に気づかされた。就労意欲のある「知的障害・発達障害と診断された障害者」たちである。早速、私たちはそれらの人材が担える職務を既存の業務の中から切り出すことを検討し、障害者と共に働くことへの理解と共感を組織内に浸透させるための準備を開始した。

しかし、そこに再び大企業の壁が立ちはだかった。そう特例子会社だ。同一資本内の子(孫)会社で働く障害者の数をホールディングカンパニーの法定雇用率を維持するための人数にカウントして良いというのである。

ふざけんな!当時の特例子会社の実態はこうだからだ。

大企業が作った特例子会社の支店や事業所の多くは、東京と言えども過疎化が進む辺鄙な場所にあり、企業の事業ドメインには何ら関係のない福祉施設の作業所のような軽作業のみをさせて、「ウチで障害者を雇用しています」というものだ。障害者の親御さんたちの、障害のある我が子でさえ大企業に就職できた。という有望感を無用に仰いでの雇用であったわけです。

ベンチャー企業の若い経営者たちの多くは、こぞってこの手法を真似ようとした。私が仕えた創業社長のもとにも、障害者雇用コンサルタントを名乗る不届き者が現れた。ある日、社長同席を求められコンサルタントの話を聞いた。私の性格と気質をよく知るその社長は問うてきた。「個人的」な考えは求めていない。組織の人事部門の長として上場企業の障害者雇用のあり方を問うと。最小リソース、最小コストの効率的な手法ではないかと。

「社長、その手法による法定雇用率の維持は障害者の雇用促進、障害者にも職業選択の自由をという制度ルールが目指す本質から外れており、わが社の企業理念にも反しており、絶対に取るべき手法ではない」それが私の職責上の「個人的」ではない答えでした。

世の中には制度や法令の抜け道が必ずある。知識のある者だけが活用できる手法がある。これも事実だと思う。選択すべき手法としては時には「アリ」であっても良い。しかし、こればかりは受入れ難かった。私には重度の自閉スペクトラム症と「たまたま」診断された甥がいる。彼の能力と感性を誰よりも高く評価する者として、彼を最大限に活かす就職を実現することは私の「個人的」なライフワークでもあったからだ。

特例子会社を活用せず障害者の法定雇用率を維持するための本質的な方策を考える。これが私の次なるテーマとなった。しかしアイデアはない。この極めて「個人的」な情熱がこそが「運とツキ」を呼び込んだ。

障害福祉サービスの一種である就労移行支援。

引き寄せられるように、引き寄せたように眼前に現れた。これだ、自社で福祉サービスを運営して制度の範囲で卒業生を自社で雇用すればいいのだと。人事部長という職責を捨て、新規事業の責任者として自ら現場に立った。通勤に片道3時間の日々も今となれば懐かしいだけ。あの悪戦苦闘の日々と敗戦歴についてはまた別の機会に紹介するとしよう。

これまで携わり見てきた福祉サービスの一部。就労移行支援、就労継続支援(A型、B型)、地域移行支援、共同作業所、生活介護、児童発達支援/放課後等デイサービス(軽度、重心)、一括りに障害者、障害児といっても多様であることをこの10年間で知り尽くした。

いま再び。と言っても、令和元年のこと。医ケア児のための放デイ(重心型)事業所を作るために株式会社クレアションを、令和2年元日にココポルトをこの地に生みだしました。一度限りの人生、自分の命を何のために誰のために燃やすのか。その情熱の炎を燃やし続ければ運もツキも必ず引き寄せることができる。運命的ともいえる「今」を自分の選択の連続により引き寄せた、運とツキに満ち溢れたこの人生の歩みにはまだまだ終わりが見えず、実現したいことが多すぎるけれど、一歩一歩その歩みを進めたいと思う。

これからはもう少し「頭」を使って戦略的にやってみようかな。物忘れと老眼に悩ませられながら・・・


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