教える側も生徒によって学ばせてもらっていることを忘れてはいけない
10/12月曜
今まで人に何かを教えるとき、「相手の気持ちになって」とか「感情的にならないように」とかを思っていたんだけど、最近なんか違うなって思うようになってきた。これらのことは根性論となんら変わりがない。全く具体的な方法論ではないからだ。
あの人は教えるのが上手とか俺は教えるのが得意じゃないとか話したりする。今まで人に教えることにその人の性格とかセンスがいるものだと思っていたけど、教えることもスポーツと同じように技術なんだと思う。
相手に謝らせてしまった時、自分の教え方が悪かったんじゃないかって思うようになった。教えている側が決して感情的になってはいけないそうすると相手も感情的になってしまい、そこからは論理的な思考は生まれないからだ。
教えられるほうがトレーニングを受けていると思われがちだけど教えている方も教えながら同時に学んで練習しなければいけない。そのことをついつい忘れがちになる。10年以上お世話になっている日本の居合道の先生は教えることのプロだった。私たちは教え方を学ぶために後輩の指導を任せられることがある。指導しているときは常に先生がそれを見て、先生が注意するときは教えられている人ではなく指導者に対してだった。
鹿児島出身の私はそこに鹿児島伝統の郷中教育とは何だったのかを自分なりに考えることができた。薩摩の人は優秀な人材を育てるために指導者を育てる仕組みを作ったのではないか。それが若くから指導の経験を与えられる郷中教育の目的だったのではないか。
私はまだまだ未熟だけれど、指導者も生徒によって学ばせてもらっていることを忘れないようにしたい。