『品の正体』 第三講 品の秘密
第三講 『品』の秘密
今回は、前回もご説明した『品』を形成する三つの側面について解説をして参ります。
そもそも『品』という文字にご注目いただきたいのですが、これは『三つの口』と書きます。
この『口』はいったい何を意味しているのか、そしてなぜ三つなのか、その秘密を今回はご説明したいと思います。
そして『状態(ステート)』、『段階(ステージ)』、『水準(レベル)』が『品』を形成する意義について考えて参ります。
Ⅰ.三つの『口』
白川静著『常用字解』では、『品』について次のように解説をしています。
『口』の形は、神事に使う詔(みことのり)を入れるための『サイ』という形で、それが三つの入れ物に入っていることを指すとしています。
しかし、それがなぜ三つなのか、については、詳細に触れていません。
品位や品質、あるいは品格は、歴史的な背景や慣習、文化的継承など、古くから受け継がれたものに価値が生れることで維持されています。
現代社会でも、あるいはこのような文字が無かった時代でも、古くから受け継がれたものを大切に敬う気持ちはあったのでしょう。
それは時代を超えて人間がもつ首尾一貫した姿です。
では、この『品』という文字は、なぜ三つの『詔』を象徴しているのかについて触れてみたいと思います。
まず、ご覧のように『詔』とは『召し上がる』という文字に『言う』と書きます。
『召す』とは、『口』という『サイ』の形の上に、『刀』を置いている象形を表わします。
昔から『宝刀』は、神事における三種の神器の一つとされていました。
三種とは、『鏡』・『玉』・『剣』で、4、5世紀の豪族の古墳の副葬品には、この3点を頻繁に認めます。
さて、『言』という文字ですが、『言』の『口』の部分はやはり『サイ』で、その上部は『辛』、辛(つら)いに習った形です。
これは、物事を言うとき、その言(げん)に違(たが)わぬよう(ウソや偽りが無いよう)神に誓って物を申すことを現わし、その信条を『辛』の文字に込めています。
『辛』は、刺青に使う針の形で、何かを口にするときに、ウソ偽りがあったら刺青をされてもかまわない、それくらいの覚悟で言動を慎むことに由来しています。
その言動の元になる『口』が、実際には『サイ』の『詔』と関係します。
重要な『詔』を大切に保管するための『サイ』、これが三つあるのが『品』という文字です。
これらの『サイ』は、三種の神器のようにきっと昔から大切にされているものと考えて間違いないでしょう。
この三宝という言葉から想像されるのは、聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」の第二条項にある
「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」
という文言です。
また、一方で大乗仏教の『大般涅槃経』では、仏・法・僧の三宝は一体であって本来は区別されるものではなく、如来常住を説く法もまた常住であり、僧もまた常住である、と説き、そのために如来は一帰依処として三宝に差別(三差別)は無いとも説いています。
いずれにしても、この三宝という言葉が、『品』の秘密に関連しているのは間違いありません。
Ⅱ.三つの宝
では、三宝がいかなるものであるのか、それを見ていくことに致しましょう。
基本的には、『仏』、『法』、『僧』という表現で間違い無いと思うのですが、これらの表現をもう少し別の角度から見ると、人間が必要とする基本的願望に関連しています。それは、
『真』、『善』、『美』の追求
です。
人は、本当のことを知りたいと願い、また、善きもの、価値あるものを保ちたいと願い、そして、本当に意味のあることをしたいと願うものです。
このそれぞれが、『真』、『善』、『美』の追求に当てはまるのです。
『真』は本当のことを知りたいと願う心
『善』は価値あるものを保ちたいという心
『美』は意味のあることをしたいという心
この三つは、カントさんが記した、知・情・意とも関連してきます。
『真』は意に、『善』は情に、『美』は知に関与します。
これらの関係は、先にお示しした『品位』、『品格』、『品質』と関係します。
『品位』は『善』の領域と『情』に
『品格』は『美』の領域と『知』に
『品質』は『真』の領域と『意』に
関わります。
ですから『仏、法、僧』と『真、善、美』の関係は、
『仏』=『美』
『僧』=『善』
『法」=『真』
となります。
『仏』は、基本的に『私』についての『美』意識に関することです。
『僧』は、『私たち』についての『善』なるものに関係します。
『法』は、この世の法則として『真』を為すことに関係します。
つまり、
『仏』は一人称
『僧』は二人称
『法』は三人称
の表現として理解してよいでしょう。
英語でいえば
一人称=I=私
二人称=We=私たち
三人称=It(He,She)=それ
という関係になります。
Ⅲ.三位(さんみ)の品
ここで、私たちが社会生活を送る上での『自分』と『周囲』の関係性を再確認してみましょう。
常に、『私』として一人ひとりの個的な関係性、『私たち』として組織に従属する集団的な関係性、そして品物や直接的な関係性のない人物など『それ』を通した関係性があります。
一人称、二人称、三人称を『三位』としてみれば、
『品格』=私
『品位』=私たち
『品質』=それ
の関係が成り立ちます。
この関係性の意図は、『私』については『品格』的存在、『私たち』には『品位』的存在、特に物についての『それ』には『品質』的存在の『三位』があることを示しています。
ここで、もう一度、今回提示したはじめの問いに戻りたいと思います。
そもそも、なぜ、私たちは『真、善、美』の追求をするのでしょうか。そこにどのような目的があるのでしょうか。
世の中には、『不正』や『不義』、『不平』、『不満』が溢れ、本当の『正義』や『善良』への志が霞んでしまうほど、私たちの心が打ち砕かれることがあります。
誰も好んでこのような状況の中で生活したいとは思わないはずです。
しかし、それが生じてしまう現実がある。
そこで、自らのこころをよく洞察すると、『偽、醜、悪』の世界に暮らすよりも、『真、善、美』に向けた志を持つことが求められている、あるいは、それに向かって『こころ』が突き動かされていると感じられると思います。
つまり、私たちの手中に『真、善、美』は未だ見えず、その境地に向かって進みたいという感覚的な欲求が常に存在していることに気付かされます。
この境地が、基本的な『品』を生みだす原動力になっていることは間違いないでしょう。
これらの構造的な解釈は、最終講の『品の構造』で解説することにいたします。
では、実際にこれら『品位』、『品格』、『品質』を保つにはどのような仕組みがあるのか、それぞれに四つの領域があることをお示ししながら、次回、第四講『品の領域』で解説して参りたいと思います。
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