『品の正体』 第二講 品の法則
さて、今回の『品の正体』では、このシリーズを通して、文化の価値やそれらの重要な感覚によって生み出された「モノゴト」を最終的にどのように判断、評価していくか、という検証に取り組んでいくことを目的としています。
今回ははじめに、前回にも少しだけ触れました『品』の法則にまつわるお話しについてご説明して参りましょう。
第二講 品の法則
前回、『品』を定める側面に、ステージとステート、そしてレベルがあることをお示ししました。
簡単におさらいをしますと、
『品の水準』は(こころ)であり
『品のレベル』『品位』を示す
『品の状態』は<あたま>であり
『品のステート』『品格』を示す
『品の段階』は[からだ]であり
『品のステージ』『品質』を示す
という内容でした。
そもそも、世の中に『品』というものがなぜ存在するのか。その理由を考えると、自然と『品』本来の姿が浮き彫りになってきます。
『品』とは、前回もお話したように、文化の在り方に関与します。アフリカに住む原住民や、アメリカのネイティブインディアンにもその文化に応じた『品』というものがあるでしょう。
それらは、仕来りや慣習、地域の特性から派生した文化的継承であることがほとんどであり、長い間の言い伝えや儀式の中に重みとして生み出されてきたものだと思います。
およそ『品』とは、このような伝統文化、歴史的な背景を守るところから見えてくるのではないでしょうか。
すなわち、儀式や伝統を重んじる態度や、その心が『品』のベースになるのです。
これは、『品』の中でも、特に『品位』の形成に関与するものでしょう。
そして、『品位』に則して『品格』が、『品格』に則して『品質』が整ってくるのが『品』の法則であると思います。
一般的に、『品質』が重視されやすいのは、見た目としても映りやすく分かりやすいからです。
本来は、『品質』を問う前に、そのモノに込められている『品位』や『品格』を検証することが大切です。
そのためには、一つの基準として、モノが生み出される文化のベースを見ることが求められます。
それは、たとえば私たち日本人の文化とアフリカ原住民の文化が異なる中で、『品』を保つベースとはいかなるものかを検証することです。
これは、『品』が、文化を通して培われるものであれば、当然といえば当然のお話です。そして私たちはベースとなるものを、自分たちの生活する社会環境を通して感じています。
つまり『良し悪し』を判断の基準にしている習慣があるわけです。
『品位』を原点から注意深く洞察すると、これらの社会環境に現れた『結果』を見るよりも、『品』のベースを担う心の傾向を探ることで、本来の『品』のあり方が分かります。
そこで前回にもお話した『品』を担う『良心』が、どのように関連するかを問うことにしたいと思います。
Ⅰ.『良心』の検証
前回にもお話した通り、文化の『品位』を支えているのは『良心』という、(こころ)の様相にありました。
これは、おそらくどこの地域、どこの国に行っても首尾一貫していることでしょう。
その心から、各々の地域特性や文化に応じた『品位』や『品格』が出現し、それらの特性、あるいはその時代に相応しい『品質』が生じるのだと思います。
このことは、『品位』とは(こころ)の『良心』に呼応する『意識』の表れであるということに他なりません。つまり、これが、成長していく段階を経てその社会での『成功』という言葉にも反映されてくるのでしょう。
『7つの習慣』を書いたスティーブン・R・コヴィーさんは『成功とは人格者になることだ』としています。
また、人々の幸せのために社会貢献を行うことだという考えもあります。あるいは『自分らしく生きること』でしょうか。
そして人格者の条件には、言動と行動の一致がありますが、「私は、泥棒をする!」と言って、それを実行したからといって人格者となる訳ではありません。
この辺りに、もう一つ条件があります。
それが、『品』の根本的な要素にまつわるもので、特に『善良』の中でも『善』に含まれる感覚です。
この『善』の感覚によって、『品位』の基礎となる『品』のレベル(水準)が決定します。
『良心』も、ここから派生するものです。
この『善』と『良心』の従うところにより、生み出された『言動』と『行動』が『品位』を生み出すのです。
Ⅱ.『善』を規定するもの
『一日一善』という言葉がありますが、このように標語では『善』の文字をよく目にします。
しかし、一般的に世の中の『善』とされているものが『善』を規定するわけではありません。
このようなお話をすると、訝(いぶか)しげな顔をする方もおられるでしょう。
その他『勧善懲悪』など、実は、このような道徳的、倫理的な言葉ほど、言葉のディテール(輪郭)を表現するためには少し工夫をする必要があります。
たとえば、『善』をはじめ『尊厳』や『愛』、あるいは『正義』など、これら道徳的な言葉の響きは非常に美しいのですが、その本質的な言葉の意味が言葉自体に映し出されてるわけではありません。
これら抽象的な言葉は、根も葉もなく勝手に意味が独り歩きをしてしまう傾向があります。
それは、言葉の傾向として、「桜の花がそこにある」というとき、私たちは『桜の花』の『花』自体がそこに『在る』と思いがちです。しかし、現実的には『花』が突如としてそこに咲くことはありません。
言葉のレトリックのようなお話ですが、この『桜の花』の事実は、現実的には当然『花』が生み出されるまでの段階があり、状態があり、水準があることを示しています。
これは、『善』など、抽象的な言葉を理解するときには、特に重要な視点なのです。
少し詳細な解説をして参りましょう。
「善きことがそこにある」という言葉の場合、その善きこととされる、事柄や動作をまねただけでは善きことを本当に深く知ることにはなりません。
このように『花』や『善』を規定する本質的なものとはいったい何でしょうか。
『花』でいえば、それは、「今、花が咲く時期」なのか、という季節、そして「今、木の幹が花を付ける大きさである」のか、という成長過程。また、その成長を規定する「養分を得るための準備」それぞれがそこに在る『花』を支えているという事実です。
『花』などの美しいものほど、あるいはその姿が印象的であればあるほど、言葉として象徴的に語られ心象が増します。
ところが、現実的な『花』は、今申し上げた通りその場に切り離されてあるわけではありません。
然るべき、状態、段階、水準という準備があり、それらが成熟するまで待つ必要があるのです。
そして、もう一つ、これはこれらの道徳的な言葉を規定する、あるいは理解するためのスキル(技術)といっても良いのですが、印象的な言葉、道徳的な言葉のディテールを浮き彫りにするために、あえて否定形を使うという方法です。
前回も、少し触れましたが、『善』の場合は『不善』とは何か、『正義』の場合は『不義』や『不正』とは何かを考えたり感じたりすることが大切です。
否定的な価値観から映し出される感情によって、その言葉の本来の理解が進むことが多いのです。
言葉とは、そもそも『言』、すなわち「コト」を載せる『葉』であり、『葉』は段階を示し、状態として振る舞い、水準を作り出す『良心』の糧であり、命を支える『言霊』でもあるのです。
『善』を規定するものは、自分自身を『自覚』する感覚であり、それはすなわち心の中で、思う気持ちです。
善きことをしたというのは、『結果』であって、それを形成しているのではありません。
それは、『不善』や『不正』を知ることで、それをしない、そのようなことが『気持ちが悪い』という、内面の心を『自覚』することにより生じる、目なのです。
それが、『良心』を映し出す鏡となるのです。
では、否定形で語られる、あるいは否定形が結果的に『善』を為す、その根本原理をひも解いてみていくことにしましょう。
『善』に至るためには、『結果』ではなく、その『過程』を見る必要があります。それによって、『善』や『良心』のディテールを観ずることができるのです。
次回は、第三講、『品の秘密』として『品』の文字について、いままでご説明してきた三つの側面との関係と、『品』をもたらしめるために必要な『良心』に対する理解を深める意味で『不善』『不正』の根本原理をご説明してまいります。
内なる目を通して見ていくためには、どのような仕組みがあり、実際どのように関わっていくべきなのかをご紹介しましょう。
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