『哲学』の散歩道 Vol.6「善意の謂」
今日は、「善意」について語る。
お題を「善意の謂」としているが、「謂」とは、いわれとか、そう伝えられているニュアンスとして使っている。
今回は、全体として愚痴っぽい語りだが、今のわが国の現状を、あえて少し辛辣に描写してみた。
「善意ある社会」
表面的な「善意」を掲げている会社や企業体は数知れない。そして病院の理念には「慈善」を掲げていることがほとんどだ。
特に医療は、教育、福祉と合わせて基本的に慈善的精神がないと成り立たない。
その精神は医療にあって当然必要なものだ。しかし、それと同時に病院でも収益性も考えていかざるを得ない。
この二面性は、敢えて言うと医療を「医業(事業)」と捉えるか、純粋な「精神」として捉えるかにも依るだろう。
医療従事を「精神」として捉えた場合、「慈善」が基本である。
そしてその「精神」のもとに医療経済活動すなわち「医業」を『医療』とするならば、『医療』は、当然慈善的に運営される必然性が生じる。
しかし事業体としての経済活動が『医療』の主軸になればなるほど、慈善本来の意味と相容れなくなる。
それは「慈善」という意味が、金銭的な経済的事業と結託しない宗教的意味合いが強いと理解されているからかもしれない。
いずれにせよ医療の「精神」は、慈善的であることは間違いないことであるし、優良な病院では必ず慈善的な理念を掲げている。
「慈善」と「報酬」
そのような理念と同時に、我が国の医療体系には保険による診療報酬が導入されている。
これは簡単に言えば診断した傷病名の治療行為に対して報酬が支払われる制度だ。
制度的には差しさわりなさそうであるが、当然治療として承認されていないことはできないし、未知の病に対する治療など確立していない傷病名、及びその治療に対しても、何ら報酬は支払われない。
我が国の医療が保険診療の許容範囲内で行わなければならない以上、認可されていない治療行為は基本的に出来ない。
国民皆保険制度として、厚生省やお役所ではわが国のとても良い一面として例に示すことが多いが、保険により縛られてできない検査や治療は相当数ある。
そして私が学生時代に、このような保険制度と保健がらみの医療経済的なことを学んだ記憶は一度もない。まったくそのあたりのことを学ばずに医者になった。
医者になって初めて、「そうか注射針一本、ディスポ(使い捨て)のシリンジ(注射器)一本にもコストがあるのか・・・」といった具合である。
手術の時など場合によっては動脈採血をする。その場合の特殊なシリンジや手技による点数加算、あるいは検査料などが加味される場合など、こまごました取り決めがある。
おおよそこのような費用を専門的に算出するのが医療事務といわれる職業だ。
医者になるまで、この「コスト感覚」というものがまるでなかったことを考えると、医学教育として意図的に学ばせられなかった気がするのだが、それこそ、気のせいだろうか。
「慈善」の旗印のもと、医者は経済的なことを知る必要はないといわんばかりの教育。
それだけではなく、昨今の老後に必要なお金の試算のごたごたも然り。
慈善を謳う福祉的な領域においても、年金だけでは到底賄いきれない老後の生活費のことで、政治家や官僚はイメージ的なお話だけが先走りして、その暴走を必死になって食い止めようとしている感がある。
「コスト」と「善意」
はっきり申し上げると、この国にはものすごい税金を払わされているという感覚が強い。そして、そこには残念なことに社会貢献しているという自負はない。
この感覚は、一体何だろう。
おそらくこの感覚は、これからわが国の労働意欲そのものに直結してくるものになるだろう。まったく労働意欲をなくす。
この不全感は、本当に何なのか。
単なる「コスト」感ではなく「善意」が伝わってくる国策であれば、民衆ももっと納得するのではないか、と想いが過(よぎ)る。
昨今の老後の話題だって、単なる「コスト」感で官僚が口走ってしまったことだろう。
民衆を単なる「コスト」としか見ていない。そんな冷たい政治や行政の在り方。
福澤氏は「国を支えて国に頼らず」といったそうだが、昔これを聞いた時には、何かと納得感があった。
しかし、今は「そう言わざるを得なかった」都合のいい言葉だと感じる。
自立した大人の考えで一見「自尊心」をくすぐるが、結局「お国」寄りの考えに靡(なび)けば「国は民の世話はしないよ」といっているのと同じだ。
まあ、百歩譲って「そのことに早く気付けよ・・・」と助言した、のかもしれない。
国、あるいは政治家官僚に、もはや聖者は居ない。
そして同様に医者稼業も保険という「コスト」感にからめとられ純粋に「善意」に集中することは難しい。
自分は、このような既成のシステムで働けないと感じる。とても居心地が良くない。
だから仕組みを構じる。
お題目だけの「善意」は空しいだけだし、それでは意味がないからだ。そして所詮自分自身が納得しない。
次回は、自分の「システム」について語る。
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