『哲学』の散歩道 SEASON3 「こころ観のこころみ」 Vol.2(2250文字)
「こころ観のこころみ」では、身近な話題を通して「こころ」を見つめ直す、その世界観を提言する。
1)ある日突然に
「我が身」を感じる身近な話題とは何か。
人には、欲求がある。あれが欲しい、これがしたい、でも…そんなものが吹き飛ぶ瞬間がある。この瞬間こそ、「我が身」の真髄に触れる数少ない機会だ。
ある日、これらの欲求など全く察知されなくなる一大イベント。このような瞬間を通してはじめて、「我が身」が分かってくる。
それは、東洋の知恵では「生老病死」という。
生まれること、老いていくこと、病に伏すこと、そして、死んでいくこと。これらは、人生の一大転機となる。
死については、何もなければ「死ぬのはいつも他人ばかり」で自分の死のことは、殆ど考えることがない。しかし、「九死に一生を得る」の言葉通り、突如として自分の死を想うときがある。
最も多くは「病」に伏すことだ。またある時は、不慮の事故であったりする。また、身近な愛する人の死も、人生に大きな影響を与える。このようなときに自分ごととして「我が身」をおもう。
自ら病に伏したとき、さまざまな理由で将来のことを案じ、全ての欲求は吹き飛ぶ。そして、多くはその「病」と向き合うことに翻弄される。難病、癌の宣告、脳卒中や心筋梗塞、内臓不全、不慮の事故での後遺症も含め、それら全ては、「我が身」に降りかかる災いと映る。
これが率直に「我が身」を思う機会となる。
特に「がん」の宣告は、身をもって感じるかもしれない。そのとき、「我が身」は替え難く、掛け替えがないものだと感じる。
「がん」は典型的な肉体的病だ。そして、いつもは気づかない「精神」的なストレスが襲う。これも振れ幅が大きい。その衝撃に、気分の落ち込みも激しい。
今までの人生、自分自身の居場所、これからのこと。さまざまな後悔や懺悔、あるときは精神的退行、他者依存、神様との取引き、だが、どんなにもがいても、「我が身」はかえられない。
そして、自らの「人生の質」や「生き様」を巡り、人生の意味を見出そうとする。
日々忙殺される、膨大な時間。この時間内に私たちは、生かされていると感じる。
社会的な契約、自分自身への誓約、人とのつながり、さまざまなものに雁字搦めに翻弄される自分が浮き彫りになる。
2)主観と主体の違い
主観的な生き方、あるいは、主体的な生き方、どちらも「自分」がベースとなる。しかし、この「観」と「体」の違いで、「自分」のこころをどのように扱うのか、見立てが異なる。
ビジネスシーンでは、主観的より主体的であることが好まれる。主観というと周囲にやや独白的に感じられるからだ。つまり自分勝手なイメージがつきまとう。
一方、主体は、意識的に周囲に配慮しながら、という認識がある。一見、主体はそのように好感が持てるが、周囲にながされてしまう「自分」に気づくとその見立ては必ずしも自分を生きることにならない。
配慮は大切だが、「主」を失った生き方は、本末転倒だ。
そもそも、主観と主体の「主」は、どちらも「主」であり、それは当然「我が身」、「自分」のことだ。 「自分」は「自ら」を「分け」ている。
一つは、自然から仮に分かれている「自分」という。これはあくまでも仮だ。
仮に分かれていなければ、「自分」は=「自然」ということ。
つまり「自然体」が「自分」であり、それがすなわち「神」である。
「主観」を本来の視座と考えると、「主体」はその視座から、周囲のかたち「あるもの」や「ないもの」を通して「体」を知ることで、「主体」となる。
「書は体を表わす」ように、「体」はその人柄や「ひととなり」を表わすなどと言われる。これは成り立ちとも言える。
「体」は「人」に「本」と書く。これは「人」が「本」になることだ。この人とは、その他大勢の「他人」つまり「他人事」、その「他」=「人也」が「本」となる「身」。それは、宇宙の中に自分がいて、その秩序の中に生きているという認識。つまり主体とは、そのような「体」を「主」に置いている。
一方、「観」は「雚」に「見」と書く。雚は鸛(こうのとり)のことで神聖な鳥とされた。昔は雚を使って鳥占いをし、神意を察することとされ、もとより神意とは、現代的には自らの意向と言い換えてよい。なぜなら仮に分かれた「自分」が「自然」に還るなら、自然の目線を持つことになる。宇宙は自然、自然は私が生み出した同じ目線で観ること。そのような「観」が「主」になるからだ。
これは、九死に一生を得るような、自らに命を開かせるイベントで見える、一つの光明だろう。
「主観に主体的に関わる」
やはり、自らの命に主体的に関わる。それが、主観から主体に通じる善き答えだろう。そうすることによって、人間は時間内存在とされているが、実は時間を生み出す存在として人生に関わっていくことができる。
身をもって「観」を知ることが、「主観」
身をもって「体」を知ることが、「主体」
つまり「主観」は、単に自分が見るのではなく、自分が生み出す全ての自然観を言い切る深い意味での「主」を纏うことであり、そのような視座が「主観」本来の観たてなのだ。
主観と主体の関係が深まっただろうか。
次回は、主客の相違から論じる。