『哲学』の散歩道 SEASON3 「こころ観のこころみ」 Vol.1(2942文字)
「こころ観のこころみ」
今年も「哲学の散歩道」に桜が咲き始めた。
ここも花道になり、年に一度のお祭りのような華やかさだ。花道を見るのは3回目。そこで、新しい気持ちで「SEASON3」をはじめることにしよう。
「SEASON3」は、「こころ観のこころみ」として、こころの捉え方を記していきたい。
はじめに
「こころ観のこころみ」は、「心観」を「試」にかけた文字通りの言葉遊びだ。こころをいろいろに観じてみようという取り組みを指す。
たんなる楽観でも、傍観や静観でもなくこころを概観していくこと。
主観的に自分自身の周囲の環境と心境を観察する視点と、客観的に自分自身の環境と心境を観察する視点、その二つの境界を合わせて観察することがこの取り組みの主眼だ。
これは、自分自身の主観・客観と、主体・客体を区別することでもある。
すでに、このマガジン上の「思考のこころみ」で触れているが、ここでは「身につまされる」自分ごととして考えられる身近で具体的な事例を挙げて全景を学んでいく、そんな趣向で進めていくことにしたい。
この全景は、誰しもが持つ自分自身の世界観であり、また人生観でもある。そこに広がる景色には、内なる秩序と外なる秩序に守られた闊達な自分領域を見出すことができるだろう。
私たちに、責任ある自由性が任されている領域、自分領域。そこに佇む自分とは一体どのような存在なのか、その世界を観じられたら幸いだ。
このこころみにより、こころの全景を観い出し、その壮観なる景観を諦観できる力が身につくことを期待したい。
それでは、早速はじめよう。
1)「こころ観」の提言
この「こころ観」は、世界観を提言する。
それは、主観と客観の景観、主体と客体の正体のそれぞれを見出す作業だ。
例えば、
あるいは、
さて、一般的には、前者は客観的に世界を捉え、後者は主観的に世界を捉えた観立てといえよう。しかし、これは単なる見識や見方の話ではない。
実際に世界をどのように観るか、あるいは実際の世界はどうあるのか、という視座からの観立てを示すことが、この「こころ観」の命題である。
どちらが正しいということでもなく、むしろ、どちらも正しく、どちらも必要な視座だ。
そこで今回は、単純に主体と客体の「境界」と、主観と客観の「境界」を観定めていくことにしよう。
2)「身体」と「主/客」
話は以外と単純だ。
それは言葉の成り立ち自体が、既に、主体や客体、主観や客観という抽象的な言葉のディテールを作り上げているからだ。
ネイティブな日本人であれば、日本語を感覚的に知っている。よく知っている語彙であれば、さらに読み取る解像度も上がる。それは、ビット数が上がれば写真が鮮明に見えるのと同じだ。
さて、主観/客観、主体/客体の導入として、ここに単純な語彙を提示しよう。
である。
なぜ「身体」(からだ)を、「身」と「体」で表現するのか。
「我が身」というが、「我が体」とはあまり言わない。熟語としても違和感がある。
我とは我ともいう。それは「自我」に近く、「我が身を重んじる」「我が身を案じる」などの場合、それが単なる「体」より「自分の進退」など精神、心理的な都合を含む場合が多い。一方、「体」は、外見的な肉体を意味する。
つまり、
「身」=内面的な印象を与え、
「体」=外面的な印象を与える
さらに、
「身」は思考的であり、
「体」は物理的である。
単純に、
「身」は「感じる」意識的なこと、
「体」は「触れる」物質的なこと、
を表わす。
3)「身/体」は「境界」?
また、主観と客観、主体と客体は、それぞれに大まかな発達段階がある。
順序として、
オトナである私たちは、主観や客観を考えるが、はじめからこの感覚が備わっているわけではない。
この過程を丁寧に見ていくことから始めよう。
これらの『境界』を見出す作業は、感覚を利用しながら進んでいく。
それは、まず客体に触れることから始まる。人間が最初に触れる客体とは、自分の体 を考えるとよいだろう。
少しその理由を考えてみよう。
① 客体に触れる
たとえば、乳幼児では当初、自分の体とそうでない客体(物体)の境界さえも不明瞭とされ、視界に映るモノはすべて自分の体と判断している。その境界は極めて不鮮明だ。そこで、たとえばブランケットをかじっても痛くはないが、自分の指を齧ると痛い。この刺激によってはじめて自分の境界を意識していく。最も身近な客体は自分の「体」がその境界になるため、体の触覚をもとに、ボディイメージが出来上がっていく。
② 主観を感じる
そして同時に主観が育っていく。幼年期は主観を育てる時期に生きている。そのものになりきりファンタジックな世界に没頭できる。海賊ごっこをすれば、キャプテンになりきれる。これが主観を育てる時期だ。この時期は、ベースになり(こころ)の感受性も深まる。
③ 主体に働く
そして主体に働く時期を迎える。主体とは単に「自分の体」のことを意味しない。日本人であれば、主体を単に体を示す語彙とは受け取らないだろう。「主体的であれ」といえば、自分自身が関わる方法としての「精神」や「意志」のことを意味する。こうして「主観」から「主体」へ意識が移っていく。
④ 客観を知る
最終的に客観を知るとは、一般的に相手の身になって考えられるようになることだ。そして、他者からみた自分を感じ取れるようになること。そのような意味合いがある。これに至るには、様々な視点を総合した見立てが必要になることは間違いない。主観という自らの視座を確立し、この視点を観出すことができる。それにも段階があるが、それらについては、また機会を見て触れていく。
次回以降、身に一番近いところが、主観となり、その左右に、精神、肉体があることを論じていく。
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