『愛の美学』 Season3 エピソード 6 「愛の気力」(2506文字)
『愛の気力』は、活力とどう違うのか。そもそも、『気力』と『活力』にどのような違いがあるのか、今回はそれを考察する。
気力と活力は「活気」と一括りにされ、そう違いはないように思えるが、「こころの立体モデル」を使い確認するとその違いが明確になる。
上図で『感の面』(赤の面)は、欲求、価値、状態を含む『場』である。まず、「気力」と「活力」の『場』の違いを確認しよう。「愛」は「気」があってから「活」が顕れる。
誰か好きな人がいた時に、「ねえ、ねえ、あの人、気があるかも?」などと言ったりする。あなたに「気」がある、というのは、あなたのことが好きかも??という心の在りようを表現する言葉だ。
これは、あくまでも「愛」の表現を「好意」に限局したときのたとえに過ぎない。しかし、「愛」は「好き」の感情に大きく影響するため、「活気」の導入の理解としてよいだろう。
つまり、「気」が生じてから、「活」が発動する。その気になって、初めて「婚活」「就活」「妊活」、最近では「終活」などが始まる。
では、「気」が生じてから、「活」に至るそのプロセスはどうなっているのか。そこには、しばしの旅がある。それを見ていくことにしよう。
上図のように、赤い縦軸の回転は、『感の面』の『チカラ』の巡りを示している。この回転原理は、『愛の回転』で『知の面』の言語を基にして解説したが、この回転の妙は『感の面』にも働いている。
私たちが一般的に「目」にする「活動」とは、モノの動きを目の当たりにしたときのモノ自体が主体で、活発な具体である人やモノの動きを表現している。したがって、『活』のベースはあくまでモノである。
一方、『気』とは何か。じつは、この質問を西洋医学のドクターからよくお受けする。そのようなとき私は「カタチあるものの動く様」とお答えする。『活』と同じようなことを言っていると感じるかもしれないが、解釈はまったく異なる。
先ほどの『感の面』の軸は、気力から尺度、精神、知力のチカラを受け、伝達、身体を通っている。面を上から見た場合、そこには、時計回りに回転する巡りがある。
「活」はカタチあるモノ、例えば「身体」を通し、その動きの元となる「気」を感じ取るというのが「気」を表現する場合の「ものの動く様」なのである。単なる「ものの動き」ではなく、そこにある動きの「様」なのだ。
この「様」にモノの「在り様」が潜んでいる。
「在」とは元より、「感の面」にマッピングできる文字である。「存在」とは、下図のように表現できる。
「存」は縦軸「知の面」、「在」は横軸「感の面」に映る言葉だ。ついでに言えば、現実とは「理の面」つまりバックの青い面自体だ。哲学用語で、「現実存在」のことを「実存」というが、それを図示すると、正にこの図のように表現できる。
「在」とは居る、在るということであり、在り様とは、何が動いているというモノやカタチへの意識ではなく、動く「様」が主体になる感覚である。
つまり、「存在」とは、本来モノの方を見ているのではなく、その成り立ちと仕組みを言い表している言葉でもある。上図でいえば、「十」の部分が「存在」、そしてその「存在」が表現されて何らかの「カタチ」になった「場」が青い面「☐」である。
つまり、「活」と「気」の関係は、「カタチ」あるモノの「カタチ」そのものを意識する言葉が「活」であり、「カタチ」あるモノの「カタチ」を動かす「チカラ」を意識した言葉が「気」なのである。
気がなければ、カタチは動かない。すなわち「気」は「活」よりも、先に存在することになる。
つまり『愛』という「カタチ」は、全てが「気」によって出来上がっているということだ。「愛」とは「気」を表現するもう一つの言葉であるといっても良いだろう。
ただ、『嫌』という最も原初の陰性感情からも『気』は発せられている。
『愛』は全てを包み込む言葉だ。本来『スキ』だから、そこに『愛』があるのではない。『嫌い』でもそこには『愛』がある。『嫌気』が差すときも『愛』がある。なぜなら、どの感情にも、いつも『気』があるからだ。
『気』というのは、全ての動きあるものに発生するのであるから、その『場』に『愛』があるのは、むしろ当たりまえだろう。
では、そうかといって、なんでもかんでも『愛』なのだ、というのは、いささか理解が浅い。詳細な各論を語れる者だけが、総論を語ることができる。私たちが『愛』を語るとき、ひとつ『気』をつけるべきは、それらの『愛』には、段階と状態と水準があるということ。(詳細は『愛の段階』を参照)
直ぐに勘違いをするので、何度もいうが、『愛』は単なる『好き』ではない。こころに『愛』を満たすには、『愛』に『気』をつけるべき感情理解が必要なのだ。
こころに『愛』を満たす。この願いは、人類に必要なのか?
ここで、そんな問いからはじめてもよいが、『愛の美学』では、『愛』とは、そもそも『美』の追求の話なので、ここにきて、わざわざ原初の問いまで後戻りはしない。
ましてや、『愛』を単なる知識として理解するとして、そんな味気ない学びでいいのだろうか。いずれにしても、『味』も『気』もある、そんな実感を伴う『愛』の学びが必要だろう。
そこで次回は、『愛の知力』について触れる予定だ。
『愛』は『知』だとする、このマガジンの主旨をもう一度検証することができるだろう。