『愛の美学』 Season2 エピソード 1 「愛の目的」(2989文字)
「愛の目的」
僕らのすべてのこころが「愛」に包まれていたとしたら、もっと豊かな人生を送れるのに、と感じることがある。
そもそも、マインド(こころ)の持ちようで見方は変わる、とはよく言われるが、それは、「愛」をどう捉えるかによる。
おそらく、これは意識に関わることだろう。では、どう考え、どう行動すればよいのか。今はやりのマインドフルネス瞑想で意識の開けを目指すのか。思考をマインドマップで洗練するのか。
いずれにしても実践は必要だろう。しかし、瞑想にもマップにも、必ず元になる型がある。
「SEASON2」では、これからその「元」の話をしていく。本日は、「S2 エピソード1 愛の目的」として、一元的な「愛」の捉え方のお話だ。
そして「愛」の目的を、はっきりと定義するそのこころみをしてみよう。このような斬新的なことを言うとき、最初に踊り出す「おかしな」奴がいると和む。それが僕で、あなたはそれをとりあえず見ていてほしい。
「SEASON2」は、雰囲気はほろ酔いで、エッジが少し効いた切り口で、愛の(エッチじゃない)コトを語る。
1)「愛」の元
前回「 S2 エピソード0序」として、断捨離の話をした。そこでは捨てるときの心情が大切であり、儀式的な面持ちを添えることに触れた。これは単純に言えば「感謝の情」であり、「自己受容」的に過去への心情回帰を同時に行うことである。つまりどんなことでも、煎じ詰めればこの二つが、「愛」の活力を増すきっかけをつくる。その過程の模式的な説明をした。
さて、今回は「愛」の意味や価値観などの変遷を、社会的通念や歴史的なこと、そして自分自身の多感な思春時代の経験などを織り交ぜて語ろうと思う。
今日の結論は、ひとえに「愛の目的」は一つだ。ということ。
以前、西洋、東洋の「愛」の捉え方にも触れたが、国の文化や慣習におおきく関わることだろう。しかし、そもそもそれは、人によってもまったく異なる。そして、捉えどころのないものが「愛」なのかもしれない、と今のところ、「愛」についてはそんなふんわりした感触でもいいと思う。そのような心地も大切だ。
ここで、僕自身のエピソードを話そう。
実は、僕は、ものごころ付いたときから、「愛」という言葉を嫌っていた。それは、別に、大きな失恋をしたとか、反社会的な物事のとらえ方をしていたとか、理由があったのでない。ただ「嫌い」だった。
おそらく、そのころは意味の分からない言葉を使うのが、嫌だったのだろう。
特に男性が女性に「愛してる」と語るとき、虫酸が走った。女性を口説く時には、よく使われる言葉だが、なぜかとても嫌だった。生理的に受け付けず、それに対し怒りに近い衝動もあった。
当初は、モテない自分へのやっかみだろうと考えていた。が、そうではなかった。たまに今でも思う。「愛」を簡単につかいすぎだろ、、と。
今になってみるとこの衝動は、「愛」をもっと理解したいという欲望だったのだと感じる。ほんとうの「愛」を渇望していたのだろう。結局、自分も「愛されたい」と感じていたのだと思う。この渇望は、観察する社会学者、ピーター・ドラッガーも、「愛とつながり感覚」として人間の基本的「ニーズ(欲求)」に挙げている。
2)「愛」と発達論
ジャン・ピアジェの認知的な発達ライン、グレイヴスの価値のライン、マズローの欲求の段階、セルマン、ペリーの人間関係のラインなど、偉大な発達論者たちは、さまざまな発達の要素と段階(ラインという考え)を示した。
「愛」を一本の「木」とみなして、その成長発達をみていくような観察眼は、認知や価値、欲求、人間関係、倫理などと複雑に折り重なっている。これは多重知性という考え方だが、本来、人間の発達は単独の認知能力だけではないことは明らかだ。
もう少し身近な例で言えば、知性、理性、感性の発達段階も一様に生じるものではない。
たとえば、「言葉の意味」をどのように理解しているか。それ一つ取っても一様ではない。「愛」という言葉の意味を、どれほど深く理解しているか。
3歳の女の子が、「愛の歌」を歌うのと、さまざまな経験を積んだ30歳の女性が謳うのとは、その伝え方やおもむきがまったく違うのはむしろ当たり前だ。
このように、「愛」とはさまざまな認知が絡んでいることが分かる。
「各論の詳細を述べられる者だけが、総論を述べることができる」ように、とりあえず今日は、この後つづく詳細な各論のために、総論的なことを「ふわっ」と先に語る。
3)一元的な「愛の目的」
これまでも、そしてこれからも、未来永劫語り継がれていくと思われるが、「愛の目的」とは、「受容」であり、「赦し」であり、「寄り添い」であり、「共感」であり、「信頼」であり、「喜び」であり、「感謝」であり、「観察する視座」であるということだ。これは何度となく、耳にした語彙だろう。
しかし、最後の「観察する視座」というのはあまり聞き覚えがないはずだ。しいて言えば、これは、これから語られていく「愛」の理解にはなくてはならない要素となるだろう。
そして、これらの語彙から、集約、収束、約束、統合、合一、総和、和合などの言葉が思い浮かぶ。何かを束ねる力、またそこから発散させる力。「愛」には、そのような力がある。
「一元的」に表現される語彙には、そこにさまざまな意味を含む。しかし、実際は、その意味や定義、さらにはそれらの意図は、闇の中にひたすら葬りさられていると感じる。
私たちのすべてのこころが「愛」に包まれていたとしたら、もっと豊かな人生を送れる、と最初にそう言ったのは、いまだに、「愛」の行方が分からなくなることがあるからだろう。
だが、「愛の美学」のエピソードが進むにつれて、思考次元や意識段階が変化していき、しだいに先の見通しや展望が開けてくると思う。
4)目的の「的」・「点」
目的の「的」は、その昔「日」に「勺」と書いたとされている。「日」の昔の文字は、日の丸弁当のような、まあるい和に点がある、ちょうど〇の中の点のような文字だった。「明るい」にも日へんがあるように、元の意味は「明らかにする」ことだ。
「勺」は、台所で使用する「おたま」のような「柄杓」をイメージし、「酌量」などの意味から、少しの量を重んじることにも通じる。
「的」の領域は極めて狭い。その中でも中心領域はさらに狭い。この「点」をどう理解するか。
一元的な解釈は、この「点」にすべてを集約する。先ほど挙げたような、何かを束ねる力、そしてそこから発散する力。この「点」に集約され、この「点」から始まるものごとに還元されていく。
そしてこれからは、いわば逆に還元されたものを、弁別して要素ごとに振り分けていく作業をしていく。
今まで、多くの言葉で語り継がれてきた「愛」という形を、これから少しずつ各論で見出していく。
愛が「的」とするもの。この命題の解答は、最終的に「Season3」以降で語られることになるだろう。だから、今回の「愛の目的」は、結果を一応述べてはいるものの、最終的な形を言い表しているわけではない。
だが、「愛の目的」は一つ。
その目的があるが故に、今ここに「愛」がある。
次回は、この点にまつわる、「愛の領域」のお話をしよう。