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#04 踏み出したのは山道でした


その人の名前は「役小角」

前に住んでいた土地の氏神さまは、こぢんまりとしていながら、祭事や神事を活発に行われる神社さんで。地域に愛され、地域のさまざまな神さまが合祀されていた場所。
境内の中、きっちり並ぶお社を、ひとつひとつ訪れることがわたしは好きだった。コロナ禍真っ只中で外出自体が減った中でも、なるべく足を運んでいた気がするなあ。

その敷地内、参道からすこし外れた場所。無骨な石をお祀りしているところへ最後に出向くのだけれど、本殿と距離があることもあって、そこの神さまとお話するのももっぱらわたしのライフワークとなっていた。

祭神の立て札に書かれていた名前は「役小角(えんのおづぬ)」さん。
お参りをはじめた当初は耳なじみのない名前だったけれど、あとから調べてみたら山岳信仰の開祖といわれている方で「ほええええ、山にご縁のある人神さまなんだねえ!」と驚いたんだっけ。

旅先であらこんにちは

神さまごとを重ねていると、ふしぎなもので。
ご縁をいただいたり、名前を覚えさせていただいたりした神さまは、出先や旅先の神社さんでもふと祀られているのが目に留まるようになるんだよね。

たとえば、春日さん(タケミカヅチさん)や八阪さん(スサノオさん)、猿田彦さんみたいな神さまは、大きな神社さんで比較的ごあいさつさせていただく機会が多いんだけども。そんな中で、おづぬさんがいらっしゃったりすると、「あら! こちらでもこんにちは!」って、ちょっとうれしくなったりもする。ふと、旅先で知り合いにお会いしたような感じ。

もちろん、今までおじゃました神社さんで、単に気づかなかっただけってこともあるかもだけど。
ご縁をいただいたからこそ、お祀りされている場所へ導いてもらった、「ようおこし」になっていたらうれしいなあとも思っている。

「ようおこし」っていうのは関西ことばかな? よくきたねって意味合いでかけることばのこと。
わたしは神さまとご縁をいただいて、その際に自分の気持ちが晴れやかになったとき、「あ、この神さまからようおこしって言っていただいた気がする」と受け止めているんだよね。

弁天さまをめざしていた

初めて高野山へ参詣した2020年10月、とある休日のこと。
空海さまのおひざもとへごあいさつをし、お寺さんの敷地でお茶をさせていただいたわたしは、ご機嫌のまま帰路をたどるだけとなっていた。

まだ日は高いけれど、予定していた参詣が終わったし……と大門を去ろうとしたところで、視界に飛び込んできた看板。

「弁財天→」(だった気がする……)

その先に、朱色のきれいな鳥居が。
あ、ここの弁天さまだけご挨拶して帰ろうかな……。そう思って、鳥居の中、神域へ足を踏み入れたのがすべての始まりだったよね。

そこが標高984mの「弁天嶽」という登山口であることも知らず……。
(正しくは、鳥居の横に道標があったらしいけども気づいてなかった)

だいたい8合目くらいからのこの絶景

歩けど歩けど神社さんらしいものは見えないし、最初は続いていた鳥居があるときぷっつり途切れて、ただの登山になってしまうし。
かなりお気楽に足を踏み入れた山道も、整えられたものでなくなったくらいから危機感を感じたよね。すでに30分くらい経っていたのだけれど。

もう、そこまで到達してしまったら、引き返そうにも引き返せない。
不安な気持ちから、泣きそうな気持ちから、ついには虚無へと至ったあたりで、ようやく山頂付近へ到着。きちんと弁天さまはいらっしゃって、ぐずぐずのままご挨拶させてもらいまして。
1時間くらいかけて、休憩しつつ、ゆっくりゆっくり山を登ったんじゃないかなあ。そもそも、登るつもりもなかったんだけど、ごあいさつして帰りたかったんだよね(涙)

参拝後、来た道とは逆に山道がつながっているとの案内を発見。
その先がバス停もある場所だからと、案内のまま頑張って下山することに。

今おもったら帰り道の看板に弁天嶽って書かれてたね

帰りの山道もなかなかに厳しく……厳しく……いや、帰り道のほうがしんどいな?! というほどの、木の根っこ。転がる岩々。足をとられそうな落ち葉の重なり。
なんで来た道を帰らなかったわたし。むこうの道は長かったけども最初は整えられていたし、なだらかだった気がするよ???

……と、後悔しながら数十分。半泣きむしろ全泣きになりつつ、安全第一で下山することまた数十分。体感的には登山よりも下山のほうがしんどかったね。うん。しんどかった……。

ぱあっと目の前が開けたとき、ご登場されたのがこちら。

もちろんおづぬさんがお祀りされている

O・DU・NU・SAAAAAAAN!!!!!!!(めっちゃ親しみこめてる)

あんまりにもさわやかにこの建物があらわれて、わたしの脳内にイマジナリーおづぬさんが現れて「どやった? 山登り!」みたいににこにこされているような感覚もして、めっちゃ脱力したのは今でも忘れられない。
おそらくは疲れからくる妄想なんだろうけども。

山岳信仰の開祖さまにご縁をいただくと、ごあいさつするにも山越え修行なんだなあ……としみじみするような、今でも忘れられないてきごととなったよね。いっそ登り切ったわたしに関しては、すがすがしい気持ちしか残らなかったけどね。結果オーライ!

本当に、今では語り継いでいきたい、いい思い出なのでした。
(わたしの下調べが足りなかったことと、看板の付近をよく観察しなかったことは、もともとの原因として反省もしている、ふえええん)

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